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零度のエクリチュール

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そう言えばtrsgrさんにお薦め頂いて読む気になった本書ですが、最近はコメントも頂かなくなり、最近のコメントも消えてしまってます(決して僕が消してはいません)ので僕の独り言みたいになってしまってますが。。

本書にはタイトルの「零度のエクリチュール」と「記号学の原理」が収められていて、それを繋げる概念としての「コノテーション」つまり「どのような記号のシステム上にあろうと、二次的な意味が発展する現象」が重要で、前書でそれを確認し、後書でそれを分析しているため収めたそうです。

当然ですが未消化なんて言葉にも到達できないレベルなのですが、僕なりの理解で、分かりやすい喩えに置き換えてみたいと思います。
その前に主な言葉ですが。
<言語ーラング>とは「言語とはその時代のあらゆる作家に共通した規則や慣習の総体」
<文体ースティル>とは「ひとりの作家の身体や過去から生まれた語り口や修辞」
<エクリチュール>とは「作家みずからが責任をもってえらびとる表現形式であり言葉づかい」であり、書かれたもの、文字のこと
<零度>とは「何もないことの意味ではない」「ない事が意味(記号作用)を持っていること」で「全ての記号体系が『無から意味を生ずる』力をもっている事の証拠」

この辺りだけ(それ以上は学者じゃないと分からん!)理解できると何となく大意が読めて来ます。

私たちは何となく言語を自由に使いこなしているように思ってしまいますが、とんでもないことで、言語、文体によって歴史的にも制約をされてきています。
「たとえば、ブルジョワジーのイデオロギー的単一性は単一のエクリチュールを生み出し」ていたが「それ(18世紀末)以降文学形式は、異常感とか親密さ、嫌悪とか好意、有益とか殺害といった、オブジェ全体のくぼみに付着する実存的感情を挑発する事が可能になる。百年来、こうしてエクリチュールはすべて、作家がその途中で出会い、眺め、対峙し、引き受けなければならず、作家としての自分自身を破壊しないでは決して破壊出来ない形式をならしたり、はねつけたりする一種の修練となった」

「ところが歴史は、彼(作家)の指の間に、装飾的で危険な道具、いいかえれば彼には責任はないが、彼が使いうる唯一の、先立つ様々の歴史から彼が引き継いだエクリチュールをおく。こうして、エクリチュールに悲劇性が生まれている。意識的な作家は今後、先祖伝来のもろもろの全能の記号と戦わなければならないからである」

「自由としてのエクリチュールはほんの一瞬に過ぎない。だが、その瞬間は歴史のもっとも明白な瞬間のひとつである」
と、困難な道である事について様々な作家など上げながら書いていますが、特に評価しているのはカミュの「異邦人」のようで、、いつか読んでみよう。。

結びで「文学的エクリチュールは、たえず我が身の孤独に自らが罪のある事を感じながら、やはり語の幸福を渇望する想像力であり、夢みられた言語に向かって急いでいる。その新鮮さが一種理想的な先取りによってそこでは言語がもはや疎外されない新しい祖型的世界の成就をあらわすことが当てにされている。エクリチュールの多様化は、文学が自分の言語を作り出し、もっぱら投企となるかぎりにおいて、新しい文学を設定する。つまり、文学は言語のユートピアになっている」と。

つまりは「無から意味を生じる」ために真空を作る作業を永遠に繰り返さなければいけないというのか。。もちろん真空は一瞬で,周りの空気にすぐ占領されてしまうわけで。

これは建築でも芸術でも同じ事のように思うけど、もう少し身近な事に引寄せてみると、たとえばサッカーという競技ですが、ルール(グラウンドやボールなども含め)が言語であり、ある選手が教えられたり練習して来た環境が文体であり、でもそれだけでは決まらなくて、ある一瞬のその選手のキラリと光るプレーがあって、それは多分言語からも文体からも出て来ないし、その新しいプレーは良いモノであればすぐに周囲に共有されてしまうし、いくら教科書的にプレーしてもそんな光ったプレーはできない、みたいな。。ちょっと次元が変わってしまったかもしれないですが、構造としては同じように思います。
ただ、言語というのはそんな意識的に作られて守られているルールでは全くなくて、いつのまにか、それもガッチリと僕たちを束縛するような体系となっているというのが、とても不思議な所で、そこにこそ言語学や構造主義というものの一端があるのではないかと思います。

さて、、で、、、こんな本を読んでいる自分というのは、やっぱり建築という形をつくるというのは作家同様の位置にいるわけで、思いついた言葉(つまり時代に流された)言葉を連ねたような仕事をしているわけにはいかないので、こういう事を真剣に考えながら、いかにして設計というものを行なって行こうかと考えているわけです。
既存の意味ではなく、自ら真空をつくって「無から意味を生じる」ような仕事をすべきだというのは、分かってるようで、容易く無く、でもこんな本にかじりつくことで、その意識も少しでも忘れないでいられるのだと思っています。

ふーーっ。疲れた。
by Moriyasu_Hase | 2012-08-19 19:35 | みるーよむーかんがえる
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