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文学における原風景

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僕が生まれた頃の書ですが、全く本質的で密度も濃く、素晴らしいです。
青木淳さん言う「原っぱ」つまり遊園地のように具体的な遊び(だけの)ために至れり尽くせりにつくられた場所と真逆の、何か分からないけれどそこで生起させる力を持つような質的な価値のあるような場所という考え方に共感してきていたのですが、そのまた原点が本書なのか、青木さんの本に書かれていたか忘れたけどたまたま買って読んでみました。
建築の世界ももちろん風景を感じる力がなければならないし、つくった建築が風景にならざるを得ないのでこういった事を考えなければならないけど、文学の世界は読んでみてなるほど、文字でしか描写できない中に質を埋込まなければならないので、建築の世界だと何となくでつくられてしまい得てももっと意識的にならざるを得ないんでしょうね。

まず出だしは、著者は東京の山の手育ちだけど大人になって気づいてみると、周りの自分以外が引越してしまっていて、ずっと同じ家に住み続けていないという驚きから始まるのだけど、その流れは更に加速していると思うし、僕の生まれ育った所もとっくにないし環境も随分変わってしまっているのはとても悲しく、精神を育むために良く無いとは思っていました。
本書の要点の一つに弥生と縄文がありますが、弥生時代はつまり稲作の時代で、水田は畑と違って集落全体で水を引込んで共有するしその水が生命線だからお互い勝手な事ができないしだからお互いいつも監視し合っているというか明け透けな状態にならざるを得なかったのが「地縁」となってその面倒くさい付き合いの中で生きて行かざるを得なかったので個人の意識などは育たなかった、との論は始めてでしたが、なるほどとは思いました。そして稲作、という道具を使った工業生産的な時代が、その前の縄文というもっと自然と濃密に交信し合うような時代に蓋をしてしまったけれど、それは我々の芯として決してなくならず、そんな思いが原風景を想わせるのでは?というのもなるほどという所でしたし、岡本太郎が見つけた縄文の意味や、白井晟一が「もっと力強い調子でと言った事とも重なる大切なところだと思いました。でも、日本全体が稲作をした、できた訳ではなくそれが発達しなかった地域は縄文性を残し、明治維新前後反抗をしたのは東北などそういった地域だったとの指摘もなるほどでした。

原風景、の話に戻しまして「『原風景』がその人間の美意識の基底になる。『原風景』がその人間の想像活動の形と主題を決定する。『原風景』は深層意識の中で 核になって、その人間固有の芸術を形成する。作品に統一性を与える」と著者は書いていますし、同意はしますが、僕にそんな原風景があったのだろうか?と考えると、育ったのは区画整理後の単調なまちなみでしたが、通学中に草むらや側溝で昆虫や小動物をいつも探していたり、魚釣りをしたりというのが広い意味で僕の原風景にはなっているかとは思うけど、その程度なので決して芸術的なものは生み出せないかもしれません^^;が、でも何か大切な事は僕の核としてあるようには思っています。

最後に、40年以上前の本書でもテレビや時代の急激な時代の変化でどうなるのか?とても心配をしていて、でもどんなに人工的で醜悪な現実になろうと、「その割れ目から、自然そして民族的深層に達する『原風景』を、それにより形成される芸術文学を生み出し続けるであろう」と結んでいます。
でもこの時まででも文学も随分変わったようですし、多分その後も随分変わったのでしょうし、それは時代の変化というより、著者の言うように作者の原風景の変化なんだろうし、それが時代にあったものであれば良いのかもしれない。文学の事は門外漢ですが、では建築は?と考えると、正直よいと思えないものが、恐らく若い建築家のもつ原風景の貧弱さから生まれているように思えて仕方がないです。
ちょっと昔が良かったとかというレベルでなく、やっぱり上にも書いたように、縄文人が持っていた、もっと自然と交信するかのような密接さ、というのはいくら時代が変わろうと、私たちが動物である限りは根っこの部分で私たちには必要なのだろう、と僕は信じているので、かと言って昔スタイルのものをつくれば良いわけではなく、青木さん的に言えば、見た事はなくてもそんな「質」を備えるものがつくれるはずだし、それが目指すべき所だと思っています。

もっと触れるべき点の多い多い書ですが、いつもまとまりなくダラダラ書いてますね^^;
しばらく本に集中できる精神状況でなかったのもあり読むのも進まなかったし、仕事以外久々のアップでした。
by Moriyasu_Hase | 2015-04-18 15:54 | みるーよむーかんがえる
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