亡くなられた黒川紀章さんが著書で触れられていたりして、前から気になっていて、本は随分前に買っていたのですが(そんな本が積まれている。。)読んでみました。 ざっと感じた事は、西洋哲学が現象学やフロイドの精神分析学で、近世やっとたどり着いた領域に、とっくの昔に至っていた(そんな単純でもないですが)ことへの驚きです。 また、精神分析学は、特殊な病状などと向き合うことによって成立したという特殊な状況に頼ってきたのに対し、唯識思想や仏教思想は、自己の内面に向き合う事によって悟りを得て来たという意味で人間誰しもが至る事ができるという大きな違いがあると思います。 上記の西洋哲学はそれなりに知識があったのもあり、この「唯識」という思想もとても自然に自分の中に入ってきたのが、仏教に興味もなかった自分にとっては不思議でもありましたが、逆に言うと、東洋も西洋もあたりまえですが同じ人間で、方法は違えど、たどり着くところは同じなのは当たり前なんですよね。 とても奥が深い世界なので中途半端な解説をするのはやめますが、僕なりに思ったことをまとめます。 図の上に描いてみたように、普通私たちは、「自分」や「もの」「他人」がはっきり実在するように思い込み、それらの「もの」に執着したり「他人」と比較したりして悩み苦しみ生きています。 一方で唯識、つまり「唯(ただ)識(心)のみが存在する」という考えでは、「自分」「他人」「もの」という境界が消え、自分の周りの様々な現象は心の中に認識されて初めて成立するもので、根本的心(アラヤシキ)から生じるものだということです。 「自分」が先に存在して周りを認識するのでも、「もの」や「他人」先に存在してそれを認識するのでもなく、自分自身も、周囲も、ただ、スクリーンに映し出される映像のように、共に映し出し合うような関係にすぎないのです。 「自分」が「もの」や「ひと」に拘らせられてしまっている現状が、様々な悩みや争いを生む原因だというのは明らかだと思いますし、自分も他人もものも、全ては自分の心の奥底の働きによって生まれているものだと気づく事で、周りに対し、謙虚に、優しく生きて行けるのだと思いますし、まわりに「生かされている」という感謝の気持ちで行き、自分の生に執着しなくなるのだと思います。 まあ僕がこんな生き方を出来てるとは決して言いませんが(^_^;) 最近建築って本質的にどうあるべきなんだろうと考えている中で、やはり人間の本質を知らなければ何も語れないなと思い、そんな興味の中で読んでみました。 もちろん建築が人間の生き方を反転してしまうほどの力があるわけでもないでしょうけれど、人と包む環境として、間違いなく人の思考に影響を与えるものです。 ですから、もちろん、人間が苦しみ悩む空間ではなく、周りに感謝し、謙虚に笑顔で生きて行けるための力になって欲しいと願い、この唯識思想のようなものが、その道標になってくれると思いました。
by Moriyasu_Hase
| 2008-03-25 11:42
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