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「わざ」から知る

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しばらく前に、菊竹さんの「か、かた、かたち」ような事をネットで調べていたら、太極拳と関連させて、つまり誰でも模倣できる「形」を、繰り返す事で、いつしか深い意味をともなった「型」になる、という書き方がされていて、そこで参照されていたのが本書でした。
その時思ったのは、野球の「素振り」。どうやら大リーガーはしないらしく、球打たなきゃ意味ないじゃん、と考えるらしく、でも剣術で素振りを繰り返して来た日本人には素振りはやっぱり意味がある事なんだと思いますが、それが世界の王を生んだとも言えますし、相撲でも柔道でも、茶道でも、まあ基本構造は「形」を無批判に繰り返す事を求められ、いつしか自分の血肉となった「型」となるという意味で日本文化のベースだと言っても良いでしょう。本書でさらに西岡棟梁がいかに弟子に伝えたか?が書かれてましたが、要するに何も言わない。鉋屑を渡して「こうやれ」でおしまい。それが意味するのは教えたくない訳でも何でもなく、教えられるものじゃない、身体で覚えるしかない、という事ですよね。
また、原ひろ子さんという方からの引用だそうですが興味深い部分を
「ヘヤーインディアンの文化には『教えてあげる』、『教えてもらう』『だれだれから習う』『だれだれから教わる』というような概念の体系がなく、各個人の主観からすれば『自分で観察し、やってみて、自分で修正する』ことによって『○○をおぼえる』のです」と。
ここで僕の好きな動物の喩えですが、渡り鳥の群れや、すごい泳ぎ方をするイルカとか、彼らは数年以上生きるので、先輩格の姿をみておぼえ、と、その連鎖をする事によってあの高度な行動ができていると僕は思うのですが、それと変わらないじゃん、ということですし、人間も近代以前くらいまではそうやって色んな事を身につけて来たんじゃないかと思います。
上記の引用に戻りますが、近代以降は、教えるべき学問、という体系があり、それを教える教師というものがあり、という感じで頭と心が引き裂かれてしまったけれど、本書の「わざ」というのはそもそも心身が切り離せない一体のものだからこそ到達できる深み、というのは頭と心が引き裂かれた私たちには決して到達も、もしかして理解さえもできないのかもしれません。
でも、それって運動とか芸術活動とかだけの世界じゃないの?という突っ込みには、みんなで音読をしたり、暗唱をしたりという事が、きっと知識を血肉化する方法だったのでは?と返しましょう。

この歳になってやっと水泳が楽しくなって泳ぐたびに上達したな〜って嬉しがったり、下手なギター弾いたり、波乗りしたりw。。最近やっとそんな精神的な余裕ができたからか、地道に継続する事で得られる歓び、みたいなのをやっと実感できる歳になったから余計こんな事を思うようになったのかもしれません。が、やっぱりすごく大切だと思いますよ。
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by Moriyasu_Hase | 2015-05-13 17:57 | みるーよむーかんがえる

THE PAPER

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旧作DVDは毎週借りているのですが、最近疲れ気味と、適当に借りてるのであまりグッとくるものが少なく。
でもこれはちょっと面白くまた考えさせられる映画でした。
白人が車中で殺害されている現場に通りかかった若い黒人二人が、治安維持のためにとりあえず逮捕されてしまい、それを裏で知った記者や責任者が夜遅くまでバタバタしながら最後は「彼らはやっていない」記事を差換えるんだけど、途中で9万部は刷っていて多分何十万部という新聞を無駄にしたりするんだけど、この新聞社は「軽い」新聞なんだけど印象的なセリフで、軽い、下らない記事は沢山乗せて来たけど、間違っていると分かっていて載せた事は一度もない!というのが責任者の最後の判断につながったんだけど、どの世界にも共通する事で、本当は間違っていると思いつつ会社のため、保身のために何かを売ったりした事が一度もない!と言い張れるプロってどれだけいるんだろう?なんて考えさせられました。
この映画では2人の無実の少年が最後に無実になったのは同じとしても心に深い傷を与える事を新聞記者としてどう考えるかというまあ大きな問題ですが、どんな職業でもいや、例えば子供に作る料理にしたって、手を抜いて身体に良くのを分かりながら毎日のように出すというのも同じ事だと思うのですが、こうすればもっと良くなるのにという事が分かっていながらやらない、やれない、というのは社会全体を悪くし、個人の幸せを薄くするばかりですよね。だから昔からの持論ですが、個々人が、まず自分のやっている事に最善の努力を払う、という事さえ心がければ、政治家の悪口を言ったり原発がどうのこうの国民レベルで言わなくたって、政治家さんなどが、最善の努力さえ払ってくれれば当然国民のために判断するに決まっているんだから、まあ基本任せておけば良い、というまあ性善説的な状況が一番幸せなんだろうな、と思います。

映画としても面白かったです。
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by Moriyasu_Hase | 2015-04-28 10:33 | みるーよむーかんがえる

文学における原風景

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僕が生まれた頃の書ですが、全く本質的で密度も濃く、素晴らしいです。
青木淳さん言う「原っぱ」つまり遊園地のように具体的な遊び(だけの)ために至れり尽くせりにつくられた場所と真逆の、何か分からないけれどそこで生起させる力を持つような質的な価値のあるような場所という考え方に共感してきていたのですが、そのまた原点が本書なのか、青木さんの本に書かれていたか忘れたけどたまたま買って読んでみました。
建築の世界ももちろん風景を感じる力がなければならないし、つくった建築が風景にならざるを得ないのでこういった事を考えなければならないけど、文学の世界は読んでみてなるほど、文字でしか描写できない中に質を埋込まなければならないので、建築の世界だと何となくでつくられてしまい得てももっと意識的にならざるを得ないんでしょうね。

まず出だしは、著者は東京の山の手育ちだけど大人になって気づいてみると、周りの自分以外が引越してしまっていて、ずっと同じ家に住み続けていないという驚きから始まるのだけど、その流れは更に加速していると思うし、僕の生まれ育った所もとっくにないし環境も随分変わってしまっているのはとても悲しく、精神を育むために良く無いとは思っていました。
本書の要点の一つに弥生と縄文がありますが、弥生時代はつまり稲作の時代で、水田は畑と違って集落全体で水を引込んで共有するしその水が生命線だからお互い勝手な事ができないしだからお互いいつも監視し合っているというか明け透けな状態にならざるを得なかったのが「地縁」となってその面倒くさい付き合いの中で生きて行かざるを得なかったので個人の意識などは育たなかった、との論は始めてでしたが、なるほどとは思いました。そして稲作、という道具を使った工業生産的な時代が、その前の縄文というもっと自然と濃密に交信し合うような時代に蓋をしてしまったけれど、それは我々の芯として決してなくならず、そんな思いが原風景を想わせるのでは?というのもなるほどという所でしたし、岡本太郎が見つけた縄文の意味や、白井晟一が「もっと力強い調子でと言った事とも重なる大切なところだと思いました。でも、日本全体が稲作をした、できた訳ではなくそれが発達しなかった地域は縄文性を残し、明治維新前後反抗をしたのは東北などそういった地域だったとの指摘もなるほどでした。

原風景、の話に戻しまして「『原風景』がその人間の美意識の基底になる。『原風景』がその人間の想像活動の形と主題を決定する。『原風景』は深層意識の中で 核になって、その人間固有の芸術を形成する。作品に統一性を与える」と著者は書いていますし、同意はしますが、僕にそんな原風景があったのだろうか?と考えると、育ったのは区画整理後の単調なまちなみでしたが、通学中に草むらや側溝で昆虫や小動物をいつも探していたり、魚釣りをしたりというのが広い意味で僕の原風景にはなっているかとは思うけど、その程度なので決して芸術的なものは生み出せないかもしれません^^;が、でも何か大切な事は僕の核としてあるようには思っています。

最後に、40年以上前の本書でもテレビや時代の急激な時代の変化でどうなるのか?とても心配をしていて、でもどんなに人工的で醜悪な現実になろうと、「その割れ目から、自然そして民族的深層に達する『原風景』を、それにより形成される芸術文学を生み出し続けるであろう」と結んでいます。
でもこの時まででも文学も随分変わったようですし、多分その後も随分変わったのでしょうし、それは時代の変化というより、著者の言うように作者の原風景の変化なんだろうし、それが時代にあったものであれば良いのかもしれない。文学の事は門外漢ですが、では建築は?と考えると、正直よいと思えないものが、恐らく若い建築家のもつ原風景の貧弱さから生まれているように思えて仕方がないです。
ちょっと昔が良かったとかというレベルでなく、やっぱり上にも書いたように、縄文人が持っていた、もっと自然と交信するかのような密接さ、というのはいくら時代が変わろうと、私たちが動物である限りは根っこの部分で私たちには必要なのだろう、と僕は信じているので、かと言って昔スタイルのものをつくれば良いわけではなく、青木さん的に言えば、見た事はなくてもそんな「質」を備えるものがつくれるはずだし、それが目指すべき所だと思っています。

もっと触れるべき点の多い多い書ですが、いつもまとまりなくダラダラ書いてますね^^;
しばらく本に集中できる精神状況でなかったのもあり読むのも進まなかったし、仕事以外久々のアップでした。
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by Moriyasu_Hase | 2015-04-18 15:54 | みるーよむーかんがえる

洟をたらした神ー吉野せい

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新聞の書評で気になり読んでみましたが。すごい!是非読んで欲しい!
読んで改めて感じるのは、人間って自然を飼いならし(たつもりだけのところもあるけど)自らつくった環境に身をおくことで、結果様々な感性を鈍らせるというか、そんなに鋭敏でなくても良いようにしてきていると思うし、確かにそれは人間がこれだけ増えて繁栄?するために必要なことだったと思うけれど、「それ以前」の人間ってどうだったんだろう?という事を考えさせ、感じさせてくれました。
彼女は1899年に生まれ、若い頃は文学も随分やり、才能もあったようですが、詩人で小作開拓農民の三野混沌と結婚し、「懇親の血汗を絞り」ながらも敗戦後の混乱のさなか「生活の重荷、労働の過重、6人の子女の養育に、満身風雪をもろに浴びました」「貧乏百姓たちの真実のみ」であり、「底辺に生き抜いた人間の真実の味、にじみ出ようとしているそのかすかな酸味の香りが仄かでいい、漂うてくれたらと思います」とあとがきにあるような生き方でした。
本人は書くつもりもなかったけど、周りが書くべきだと推したから残ったようなものだろうけれど、この1冊には大正11年から昭和49年まで、ほぼ彼女の人生を横断する短篇が入っているので、その生々しい生涯をとても感じる事ができます。

特に共感するのは、多分、僕の父方の祖母も、女手一つで、息子5人を、正直ほとんど語ってもらったりしてもらった事はないのは残念というか、敢えて語りたいとも思わないんだろう、農業をしていたようで、随分苦労もあっただろうし、辛い思いも沢山したんだろうけど、だから僕も生きていられるわけで、というのもあり、なんだかとても心に響きました。

生な世界と裸の心身、というのか、そんな状況だと、手袋を外して直接触るというかそれこそ皮膚まではがして握っているような本当の生な感性になるのかもしれない。それも日々生きる事に本当に追われて走り続けるしかないような状況だからよりそうなのかもしれない。お互いそんな風に生きている同志だから「人間同士の心の奥に流れあう凄まじい信頼」なんて言葉がでてくるんだろうな。現代はみんなそんな真剣に生きていないし、社会や親でもナメて生きている同志からは決してこんな言葉は生まれてこないんだろうなと思う。

ご興味を感じたら是非読んでみてください!
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by Moriyasu_Hase | 2015-02-18 18:46 | みるーよむーかんがえる

私の自然観-今西錦司

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先日のドーキンス的なのが恐らく進化論で正統とすれば、今西さんは少し異端的だと思いますが、前も「進化とはなにか」をここにあげたと思いますが、大学の頃から今西さんの方が正しいと感じてきて、何故自分がそう感じるのか、もう少し分かるかと本書を読んでみました。
思ったのは、たとえばDNAが全て解読されたところで、人間や、私自身の本質にはたどり着けなくて、結局は本書の「自然観」つまりある種の思想をもって本質を感じるしか無い、という意味では、前者やドーキンス的なものは科学者の行いであり、今西さんは思想家なのだろうな、と思いましたしだから今西さんに賛同するんだろうなということです。
今西さんは、例えば本流の考え方である、突然変異がランダムに起こる、という事に異議を唱えていて「設計主は、生物の進化論であるかぎり、生物にあるに決まっている」「個体がバラバラに、でたらめな突然変異をするのではなくて、どの個体も、多少の後さきはあるにせよ、みな同一の突然変異をするのでなければ、話があわない」と言っていて、僕は恐らく大学時代にそれを読んでからずーっとそう信じているように思う。

今西さんは、山に登り、四季折々の渓谷を探検するのが何より好きだったようで、他方都市的な人工物には興味がなく、だからカゲロウや猿の研究をしたりアフリカなどに行ったりしていたそうで、つまりは子供の頃の好奇心と感受性をもち続けたと言うのかもしれないけれど、結果として「人間も生物の延長にすぎない」とか「生物もまた人間と同じように主体性を持ち」という思想、といっても東洋的であるに過ぎないと言えばそれっきりだけど、一流の学者にしてそれを貫けたからこそ評価もされているんじゃないかと思う。
あと読んでいてなるほどなと思ったのは、人間はかつてまだ原始的な社会を営んでいたころまでは「社会外的な環境に対する適応」をしていればつまり自然の摂理に従っていれば良かったのに、今では「社会内的な環境に対する適応」をしなければいけなくなっている。つまり色んな法律や道徳やルールに従ったり、人間関係に必要以上に苦労したりしなければいけない世の中だけど、日本の庶民レベルで言えば、100年も前なら、結構前者だったはずだし、今の窮屈な僕たちよりずっと良かったかもなあ。ということです。

何故進化とかに興味があるかと言えば、やっぱり冒頭の言い方をすれば知識が欲しい訳では決して無くて、僕なりの「自然観」「人間観」を持たないと設計はできないと思っているからなんだと思います。
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by Moriyasu_Hase | 2015-02-15 13:45 | みるーよむーかんがえる

イギリス人アナリスト日本の国宝を守る

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まず、著者のデービッド・アトキンソンは元ゴールドマンサックスで日本の銀行の不良債権問題で、銀行と国が共謀して額を小さく見せていたのに実態を暴いて、脅迫されたりそんな日本の理不尽さに愛想を尽かせたけど茶道を通して日本の素晴らしさも知り、その縁で文化財補修を手がける小西美術工芸社の社長に何故かなったという。不良債権問題でも明らかだけど、「数字に基づいた分析」をきちんとしないのが日本人で精神論や思いこみが多い、つまり「サイエンス」が足りない。と言うのだが、まあそれは日本人も気付いてはいても何故できないのか?しないのか?ですよね。日本の今の財政状況は本当に問題だから、本当はサッチャーがやったような事をすべきで、サッチャー回顧録より「『援助に値する』貧困と『援助に値しない』貧困の区別である。ともに救済してしかるべきである。しかし公費の資質が依存文化を強化するだけにならないためには、両者への援助は随分違った種類のものでなければならない・・・・」を引用し、つまり数字に基づいた分析により、上記の区別のような決断をすべきなのに、日本人にはそれができない、と。確かに小泉改革も勢いはあったけど、実際随分偏ったものだっただろうし、鉄の女、と呼ばれたような冷徹な分析をもとに決断、というのは日本人には馴染まない。
でも一方で、最近行政のやる事をみていると、数字を本当に都合良く使って、価値の無い事の根拠付けに使っているように見えるけど、そんなのは分析ではなく、言い訳の道具だろという感じですよね。そこは今後もなかなか変わらないだろうし、著者もそれが変わるとは思っていないとは思いますが、アベノミクスもつまりは国力をあげるための取組みであるけれど、策の中には大した効果がないものもあり、つまり、農業みたいに既にGDPの1%しかないものを改善しても効果は薄く、他国と比較してまだ伸びしろと可能性があるものとして「観光」であると。また日本には京都に限らずまだ寺社など残っている方で、でも文化財保護も最低限の今年かやっていなくて、「海外において文化財保護の基本はpreservationとpresentationの両立」つまり保存とアピールが必要という意味で後者が全く欠落しているから観光に結びついていないという。
それはそう思うし、以前も書いたかもだけど、日本の近代以降ボコボコできている安っぽい建物や電線やアスファルト舗装などが日本の景観の価値をすっかり台無しにしてきたのだから、その価値が少しでも上がるように、道路も距離ではなく質を高めたり、設計料に補助をしたり(医療だって当然のように補助されているわけだし)する事で共有財産である景観の質を高める、というのがひいては観光収入にもつながるしその価値は十分あると、思います。
著者は日本の大工とか全く知らずに経営的な能力で社長になり、文化財やその状況を多く見て来た中でそう思ったようだし、実際著者の祖国のイギリスでは文化財の補修に日本の6倍(人口、GDPは半分ほど)かけて、例えば大英博物館だけでも京都府全体に訪れる外国人観光客が2倍もいるそうですが、様々な波及効果を考えるとやはり大きな違いだなあと思います。
さて、何故日本はそうなのか?まずは木造というものは、震災や大火を通じて、また西洋化を通じて、基本否定すべきものだと思ってしまっているから、そんなに思いが込められない、力が入れられない、というのがあるのではないかと思うし、実際、文化財たちは現行の建築基準法に適合していないので、大改修や建替えに際しては、同じように無理矢理表だけでも木造でやろうとすると、恐ろしい手間とお金がかかってしまう、という事も足を引っ張ってしまっているのだと思いますが、著者はそこまで踏込んでいません。
建築設計の世界に身を置いてたまに思うのは、近代以降私たちがつくってきたものが、そのうち国宝になるような価値があるのか?恐らく、経済原理でつくられるという制約や、建築界の中での自己満足的な表現の結果として、無理じゃないかと思うけど、それで本当によいのだろうか?数百年、千年(人間がいたらですが)後の世代から、僕らの時代は本当にろくなものを残さなかったね、と言われるんじゃないか、と悲しく思ったりもします。
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by Moriyasu_Hase | 2015-02-07 17:39 | みるーよむーかんがえる

進化とは何か/ドーキンス博士

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またこっち系ですw
20数年前のレクチャーの邦訳がやっと、という事ですが何でこんな良い内容なのに?多分出版社側の理由があるんでしょうけれど、それでも素晴らしい内容でした。
基本はダーウィンで、僕がどうも納得できなかった部分、つまりはいくらとてつもない年月がかかったにせよ枝に本当にそっくりなナナフシとか偶然の積み重ねではとても出来そうも無い事が出来た理屈を丁寧に書いてくれていました。つまりはみんな最初は僕と同じ疑問を持ったという事なのね。
たとえとして、たとえば100桁のダイヤルの鍵をひとつづつ試しながら開けられるかというとそれは不可能だけど、例えばナナフシの進化にしても最初は多少枝っぽかったのが生きるのに都合が良くて、と徐々に積み重ねた、鍵でいうならば、1つのダイヤルが合えば、ドアが本の少し空く、という積み重ねであれば結構簡単に実現できてしまう、という理屈。それはなるほどと思いました。
クモの巣も最初は荒くて役に立ちにくいものだったけど、ちょっと密度が高いものをつくる固体がエサにありつき、それが遺伝として少しでも密度の高い方が有利な事の繰り返しが到達したのはとても美しいパターンで無駄がない巣を全てのクモが作れる状態だったというような。

有名な言い方ですが、「地球上のすべての生物は遺伝子の乗り物にすぎない」というのは、つまり僕らは自分の意志で動いているようでも結局遺伝子が残ろうと僕らを操縦しているに過ぎない、という事ですが、まあ人間は自殺したり戦争したり動物の本能がある種壊れてしまっていますが、本来動物はそうだというのは正しいと思います。

ただそれでも僕の疑問の一つには応えてくれなくて、ダーウィン進化論では、全ての遺伝子が常にある巾で違う遺伝子を生み出し続けてそれが環境の中で淘汰される事で進化というか適応して結果様々な形の動植物が生まれているのだけど、シーラカンスやカブトガニみたいに何億年変わらない生き物がいるというのは説明がつかず、それについてはドーキンス博士も「面白い問題」と述べるに留まっています。そこでやっぱり僕の持論ですが、遺伝子というか身体や細胞自身が常に環境と触れ合いながらそれに合わせようとする能力をもっていて、それが遺伝子にも影響している、と考えるならば、深海のような環境の変化などが少ないところでは進化の歩みも遅く、逆のケースでは(実際あるそうですが)数十年の期間で結構な変化を遂げることもある、という説明がつくと思っています。

でもまあ、進化論って、正しいんでしょうけれど、欧米独特のドライさというか、東洋人や島の人々には感覚的に馴染まない、というか、科学的にはそうかもしれないが、そんな事よりこの自然の偉大さにただひれ伏さなきゃダメだよー。というのが本心だったはずなのにな。と思ったりもします。

まあでも、こういう知識を得る事で、自然というのはとてつもない試行錯誤の中で磨かれてきたものだからこそ、全く人間の思いつきでつくるようなものは足下にも及ばなくても当然だ、と思い知る事ができますし、多くの偉大な技術や芸術がそうだったように、自然に学ぶというのが王道なんだと再認識しました。
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by Moriyasu_Hase | 2015-02-02 18:17 | みるーよむーかんがえる

人類はいつアートを発明したか?

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このタイトルは「アート」「発明」の定義をしないと全く意味のない問いだとは思うけれど、今とても興味がある事なので買ってみた。
ラスコーやアルタミラの壁画は有名だけどこのショーベ洞窟の壁画は知りませんでした。アルタミラより少し新しいようですが36,000年前。
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すごい躍動感があり、絵がうまくても簡単に真似できるものではないような質ですよね。次に25,000年前ごろのブラッサンプイの婦人と呼ばれるマンモスの牙の彫刻。
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これも写実的というわけではないのに独特の美しさを感じさせます。ローマは2000年前、エジプトだって4500年前程度だから一桁違う昔にこんなものをつくっていたとは。今時のアートの定義は無視して、そもそもなぜこのようなものを描き彫ろうと思ったか?そのピュアな部分をアートと呼んでみたいし、今でもアートはそうあるべきだと思うのだけど、現代に近づくほどに、ある「個」が作家的行為としてアートをしていて、上のような大昔にはそれがゼロとは言わないまでも希薄だったと思う。例えば漁がうまい奴が漁に特化し、それを仲間で分かち合ったのと同じように、その集団がこのようなアートを必要としていてそれが上手なやつか描いた、と思うしそうだとしたら、やっぱり作家的行為ではなかったと言えると思う。

僕の興味はそれがいつごろからどうやって、作家的行為に変質したのか?そして今の作家的行為に見えるアート(建築も音楽も同じですが)の内に無意識的領域として、結構大昔と同じ質のものが残っていたり、それがあって初めて素晴らしいアートなりが生まれてくるのではないか?という事です。

言い換えると、無私の中にある表現というか、それこそアートの本質なのではないか?というか。でもこれらの太古のアートの背景には、今ではもう望むべくもないような、ピュアな自然。つまり偉大な不思議の塊というか、我々は何の疑念もなくただ従うしかない巨大なものだけど、日々とても新鮮な感動を与えてくれるようなもの、に接していたからこそ生まれ得たとするなら、やはり既に大きな断絶をしてしまっているのだろうか。。
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by Moriyasu_Hase | 2015-02-02 16:15 | みるーよむーかんがえる

歴史の中の日本/司馬遼太郎

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この歳になって歴史を知る大切さをやっと感じるようなお恥ずかしい状態なので偉そうな事言えませんが、何かが「大切だ」と気付くのは人によってすごく若かったり、随分歳をとってからだったり環境や性格によるのだろうから、周りに言われるのではなく自分で気付くしかないのかな、などとも思います。
いわゆる司馬史観は「研ぎ澄まされた歴史観と豊かな創造力は、激動する歴史の流れとその中に浮沈する多彩な人間像をみごとにとらえ、それを我々現代人自身の問題として明快に解き明かす」と評されていますが、「創造力」というのは違うようにも思う。
司馬さん自身が「私は自分のドグマを書いたつもりはない。もともと私は他人のドグマを信じたり、自分のドグマに陶酔したりすることのできない一種の不幸な性格をもっているから、ひとつの場面について残っている事実群をできるだけ多く集め、それらを透過してこれが真相なんだろうと私が思い、かつ大多数の良識の承認を得られるであろうということを積上げてみたのである」を書いていて、なるほどだからこそ出来た偉業なんだなと思いました。歴史に耳を澄ます作業をどれだけ深められるか、というような。
僕が目指している建築の方向も、基本的には似ていると感じましたが、つまり自らの創造力ではなく、素材達や歴史が残した建築や今の技術や人々の感性などに素直に耳を澄ました結果を積上げてゆきたいなと思っています。

本書はとても多くの日本の今までについて触れているけれど、改めて、日本って変わってるよなあと思いますし、今歴史に興味を持っているのも、そんな日本がなぜでき上がったのか?を知りたいと思うからだったりもしますし、それは自分自身を知る事でもあり、自分や他人のドグマに囚われないためでもあるのだと思います。
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by Moriyasu_Hase | 2015-01-26 18:28 | みるーよむーかんがえる

昆虫はすごい

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昆虫はすごい!のは多分当たり前の事で、生物は様々な環境の中で進化をしながら分化をして来た中で、人類なんて所詮10万年とかしかたっていないけど、昆虫は4億年以上前から存在する訳で、人間からみて信じられないような見た目や振る舞いの多様性があるのは当然、とも言えます。でもやっぱり具体的な例を見せてもらうとやっぱり「すごい!」ですね。 
以前も書きましたが、僕はどうもダーウィン進化論のいう、偶発的な突然変異が淘汰を受けてその環境に一番適した種を作り上げてきた、というのが信じられなくて、つまり本書でもあげられているように、例えばアリの巣に他の昆虫が入り込んでアリの臭いをつけてなりすまし(巣の中は暗いから)アリの幼虫を食べて大きくなる、なんて振る舞いが単なる偶発的進化から生まれるものだろうか?と思ってしまうのです。ただ、4億年ですしねえ、あり得るのかなあ?とも思い始めてしまいました。
でもこれも書いたことがありますが、「ミラーニューロン」という相手が何かをしているのを見ると、自分もそれをしているような感じ(というか脳がそう動く)、例えば映画をみて主人公の気持に移入して涙してしまう、というのがきっと動物にもあって、単なる偶発性ではなくある種の意志をもってある方向へ進化した、と僕はそれでも思っています。でなかったら説明できないような本当に多様な姿や振る舞いが、本書で感じることができます。
また、人類は今、地球上でとても偉そうにしていますが、昆虫達の生態が本当に環境に適応している事と比較してみると、一体人類は本当に適応しているから偉そうにしているのか?いや地球に傷をつけ、原子力みたいな爆弾を後世に押し付けて成り立っているんだから決して適応していないし、僕たちがつくる建築物も、今日は大震災から20年ですが逆に人命を奪う凶器になったりと、昆虫の巣よりもより適応した存在なのか?と謙虚に考えてみるべきだと思います。
という意味では、人類は昆虫に全然及ばないですね。
大した存在でもないのに、自分はすごい、と思っている存在はいつか滅びるだけですよね。
だから、地位や過去の業績で今も偉そうにしている年配の方は大嫌いです。関係ないかw
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by Moriyasu_Hase | 2015-01-17 10:31 | みるーよむーかんがえる