カテゴリ:けんちくーよむ( 155 )

日本建築思想史/磯崎新

f0157484_16361222.jpg

僕は44歳になりましたが、40歳上の磯崎さん。周りも聞いておきたかったのか本人も話しておきたかったのか、僕らが聞いておくべき、生きた歴史が語られていますが、実は歴史って学者も沢山いて学校でも散々習ってきたけど、生きた歴史、つまりぼくらがこれからどう生きて行こうかと考える力となるような生きた歴史なんて、それも表向きになならないけど影で働いて来た大きな力が一体なんだったのか?みたいな事ってなかなか触れられないけど、本書にはそれがあります。もちろんそれは、磯崎、という一建築家が1人で背負って来たから言えるというか、つまり裏の部分なんて学者はそう触れられないでしょうし、磯崎個人の責任でももって発言している訳ですから、ズレている部分はあるにせよ、やっぱり生き生きと僕らに迫ってくる歴史であるわけですね。
建築設計を真面目にやってきていれば、どこを読んでも面白いので、敢えて細かい部分は引きませんし、まあ既に語られて来た事もかなりあるので目新しい事が多い訳でもないのですが、聞き手の横手さんの師匠が鈴木博之さんだったこともあり「地霊」や「批判的地域主義」の話になりましたが、それを、「(近代の)根拠でもあった精神が消えたときの逃げ口だった。たんに後ろを向くだけの普通の保守」「建築的思考から逃げた」とバッサリ言うのですが、ここに本当の磯崎というのがあるんだと思いますし、その延長で言えば、建築的思考に向き合い続けて建築をつくり続けられている建築家が磯崎以外にいるのか?となってしまいます。
つまり、もちろん時代やその場所の中で建築は生まれざるを得ないけれど、建築というのはそれ自身で本来自立したものであるべきだし、建築家は自立したものとして思考をしなければならないという事だと思いますし、新たな構造技術や流行に流されたり、エコや、法規などに振り回されたりしてできたものは建築とは呼ぶべきではない、とは僕も信じています。じゃなければ読もうと思いませんがね。
建築家でもないのに建築家と名乗ったり、どうしもない建物を建築と呼んだりするのをやめるところから始めるべきなんでしょーね。
[PR]
by Moriyasu_Hase | 2015-06-06 16:58 | けんちくーよむ

新建築6月

f0157484_15421476.jpg

安田講堂の改修。築90年。長いのか?西欧から見れば大した事はないんでしょうけど、こうやって残す価値のある建物があることは建築が文化としてあり続けるためには必要ですよね。ただ、現代建築が90年後に大改修をする価値を持っているか?と言えば、ほぼノーじゃないかと思うと、現代の建築は文化とは言えないとも言えるかとも。。
本号は学校特集で小中一貫校や今時の新しいタイプが色々載っていたんだけど、前から思っていたけど良く作られているCAtの学校など、どうにも子供のための雰囲気じゃないんじゃないかと感じる。
小嶋さんが山本理顕さんを引いて「制度化された空間がまさに子供達への『権力』となってしあみかねないということを、強く自覚する必要もある」と言っていて、確かに空間としてはそうならないようによく考えられているとは思うんだけど、やっぱりコンクリートのスケールの大きい、強い表現に僕はどうも違和感を感じる。ただ唯一、乾久美子さんの七ヶ浜中学校は、子供のための雰囲気をしっかりつくってますが、女性だから出来得たのだろうか。。その雰囲気は学校だけではなく、大人のための場所でも、安心感や落ち着きを感じるために必要だと思うし、もちろん住宅にも必要だと思う。住宅は小さいので比較的必然的にそれが出来易いけれど、大きくなると難しいのか?というところで安田講堂に戻ると、その雰囲気をきちんと備えていると思う。それは装飾だったり素材だったりがスケールが強く感じられすぎないようにしているんだと思うけれど、近代はその部分を切り捨ててしまって未だにそこの大切さが忘れられたままなんでしょう。
ただ、乾さんも装飾を足してる訳では決してなくて、空間全体やディテールのスケール感を丁寧に考えている+ほんの少し素材感を上手に加えているという感じかな。先日竣工した「まぐねっと」でも僕なりにそんな事を考えてはいました。
[PR]
by Moriyasu_Hase | 2015-06-02 16:03 | けんちくーよむ

新建築5月

f0157484_1452194.jpg

としまエコミューゼタウン。下層に豊島区庁舎、上層に分譲マンションという再開発事業だそうですが、僕は単なる分譲マンションの区分所有でさえ大きな問題を孕んだものだと思っていますがさらに区庁舎と合わせるなんて、と違和感を感じましたが「1棟化することの問題は区も含めた区分所有建物になることであり、特に建替えに関する合意形成が可能かという天は大きな課題である。われわれはこの答えを探して時間を冗費するよりも、議論の場と時間を用意することによって次世代の知恵に委ねる選択をした」と書かれていて、ちょっと唖然としました。まあ日本的な問題先送りですが、誰が責任とるの?と。またそんなプロジェクトが表紙になるのも??ですね。

右下のは青木淳さんの「三次市民ホールきりり」。蛇行する川が近く水害に良く遭うのでと、コンペ要項にはないけど全体をピロティで持ち上げて、その分仕上なども簡素化して、ピロティは普段は「余白」として何かのためというわけでないけど、「人を受入れてくれる」場所となり、そんな余白は公共建築だけでなく建築一般に必要では?と投げかけられている。
広大なピロティ分のコストを下げるためもあり、新築なのに素っ気なく配管なども出ていたりしていわゆる新築に見えないこともあって、何か違う用途の古い建物を改修したようにも見えるんだけど、それがさらに「原っぱ」的でもあって青木さんらしい建築です。
「余白」というのは今まで青木さんからも聞いた事がなかったように思うけれど、あそびというか無駄というか、それが全くない合目的的なものってなんとなく息が詰まりますよね。人生もだけど。
そういう意味では表紙の方のやつみたいな建築って、全てが合目的的に、つまりなぜその形になっているのかが説明されることを求められるし外観設計をした隈さんも言葉で説明するのがお上手なので、さらにそういう「余白」的なものが感じられないから軽薄に感じちゃいますよね。
[PR]
by Moriyasu_Hase | 2015-05-05 15:14 | けんちくーよむ

新建築4月

f0157484_1383895.jpg

3月は仕事に追われて仕事のことばかりでしたし、遅くまで働くわけはなくても精神的に疲れていて本を読んでも進まず、、という感じでしたが、4月になって気持も新たに、前向きに新しいプロジェクトを進めてゆけそうです。

表紙のは広島牛田教会+あやめ幼稚園とのことですが、建築的にどうこう、というより、このクスノキ、原爆に耐えて残ったものらしく、それを残したというか、このクスノキの存在感が表紙になったようなものだと感じるのですが、この少し無骨でコンクリートの設計だったから良かったけど、流行りの軽い設計では恐らく負けてしまっていたのでは、と思います。
設計云々より、やっぱり時間が経過する、というのは色々な意味で重たい事だし、建築はもっとそれを正面から引き受けなければならない、と改めて感じた次第です。
そういえば、設計事務所に勤め最初に担当して1年程現場に張り付いた作品にも確か3本かクスノキを残したなあ〜と施設名を検索してみたら、、ちょっと驚きの事になってました^^:
聞いてくれればお話しますが名前は伏せておきます。

さて、月評で青木淳さんの、先月号の東京国立近代美術館リニューアルについての評がとても重要に思いました。
このリニューアルは予算もなく諸部分の「チューニング」を行き渡らせた事が成功しているとして、そのチューニングの対極が「コンセプト」であり、「まず目的地を決める。すると、設計というのはその目的地に近づくための技術にすぎなくなる。コンセプトという言葉が出てくる時には、そいういう思考が背景にある。いかにきれいなコンセプトをつくるか、いかにきれいにコンセプトが見えるようにするか。そいういう考えにのみ込まれる時、建築はメディアに落ちる。」と。
青木さん、悩み続けてるなあ〜と尊敬しますが、他に悩み続けている方は?と考えてもなかなかいなくて、実は師匠の磯崎さんだったりしますが、やっぱし師弟ですかね。
[PR]
by Moriyasu_Hase | 2015-04-02 13:32 | けんちくーよむ

新建築3月

f0157484_1346395.jpg

表紙は倉庫を改修してブルーボトルコーヒーのオフィス工場ショップを入れたというもの、あと隈さんの倉庫からの改修のla kaguも載っていて考えさせられるのは、一昔前は人件費は安く材料が高い時代で鉄骨量を減らすために細い部材を丁寧に組み合わせたりしていて、恐らく施工も丁寧で、結果モノとしても美しかったりしたと思うけど、今は逆でなので、何十年か後に、今の倉庫が同様に活用されるか?というと違うかもしれないなあと。
また倉庫はおおらかな空間なのでもちろん新たな用途にし易いというのもあるだろうけど、でもやっぱり倉庫は倉庫であって、西洋のような築数百年のものを改修しているというのと同じ土俵で眺めたてはいけないんだとも思う。

写真右上、西沢立衛さんの、日本キリスト教団生田教会。「人びとの活動や交流が外からも感じられる空間」「建築内外の連続性、住宅地との調和」という意味ではその通りできているように思うけれども、いわゆる教会、というある種の精神性が感じられるような所がなく、それで良いという教団側だったのかもしれないけれど、どうにも違和感を感じてしまった。地域の交流施設であればこのままで良いんだとは思うけれど、宗教に対する僕の決めつけに過ぎないんだろうか。。
でも、本当に世界的にも活躍されて、とても良い建築もつくって来られて、新しいものも期待されて、お大変だろうなあと思いますし、一方、かなり規模も用途もスタイルも抑えた中でやっている自分は楽しているのかなあ、、と考えたりもします。
[PR]
by Moriyasu_Hase | 2015-03-07 14:04 | けんちくーよむ

建築ーゆずり葉のデザイン

f0157484_165738.jpg

大学卒業後、6年学ばせて頂いた、徳岡昌克先生が、10年ちょっと前に出されていて、今頃か!と叱られそうですが、最近、日本建築家協会の「25年賞」という25年以上経った建築を評価する賞に、稲沢市荻須記念美術館
が選ばれたと知り(前年度には志賀町民センターも選ばれています)、とても良くできた美術館ですし、25年賞というのもとても良い賞だと思うので、少し懐かしく色々思っていて、読まないとなあ、という事でした。。
先生は竹中工務店設計部に50過ぎまでいらっしゃってからの独立で、そのきっかけが荻須美術館のコンペでの獲得だったようですが、私はその10年くらい後に入所して、ご子息が当時副所長でそのラインの設計を担当する事が多く、先生の直接のご指導は余り受けられなかったのですが、でも、今はネット等情報が溢れていますが、当時はやはり、以前のプロジェクトの図面を参照して進めましたし、やっぱり随分、というかかなり影響を頂いたと思いますし、当時のポストモダン建築には共感はできませんでしたが、先生のとても真面目な建築は、特に今思えばとても良い勉強をさせて頂いたと思っています。だから25年賞も、なるほど当然だな。と。でもやっぱり事務所を作られてまだお若い頃の仕事は、私が入った頃のものと比較してもやっぱりオーラが違ったというか、想いがすごく建築に込められていたと思いますし、でもそれは簡単に続けられるようなエネルギーではないのでしょうね。
対談の中で触れられた「建物に生命がある」というのは、僕も最近になってやっと本当にそうだと思えるようになってきたんですが、逆にいうと設計者はその生命をつくっている訳で、少しでも元気に、楽しく、そして長生きして欲しいと(例えば親が子に願うように)思う気持が設計であって、その想いが強いほど(親子は逆効果もありますが^^;)やっぱり建物は素晴らしくなるんだと思います。

僕が勤めているころ「生き様のデザイン」という作品集を出されました。「生き様」なんて、そんな重たい言葉使わなくても、とちょっと感じたりしてしまうかと思いますが、先生の生き様に触れていれば、とても理解ができますし、大事な事だなと思います。

お前には何も教えてはおらん、と言われるかもしれないですが、僕の建築に対する考え方に大きな良い影響を頂いていると大変感謝していますし、そのご恩は次の世代に僕自身が何かを伝えられる事だと信じて、もっと努力してゆかないといけないと、そうしないと叱られる(それなりに叱られました^^;)と思っています。
[PR]
by Moriyasu_Hase | 2015-02-13 17:25 | けんちくーよむ

新建築2月/集合住宅特集

f0157484_11411693.jpg

長谷川豪さんの御徒町のアパートメント。階高を抑えて10層入れられるので、容積率500%一杯つかうために住戸間に隙間を生む事ができそれを垂直に重ね、住戸の独立感を生む。というコンセプトがうまく実現されているとは思うが、写真で感じるということは実際もっとじゃないかと思うけれど、何だか「圧迫感」がつよい。それは階高を抑えた結果天井高2200となり、また平面的な隙間を生みつつ10階とするために構造壁も厚めなのだろう。3階4階くらいならもっと軽やかにつくれてベターだったんだろなと思いつつ、まあ容積率残すわけにはゆかないとして、でもまあ根本的に、500%の容積率で住宅をつくるなんてやっぱり僕は間違っていると思う。その密集性はある種の貧困に近い(言い過ぎ)のでは?
もちろん効率重視の業務、商業施設における密集性には意味はあると思うけれど、リラックスして寝て起きて過ごす場所としては、僕が開放的に生活する快適さに慣れ過ぎている事もあるけれど、違和感を覚えてしまう。と、作品ではなく社会システムへの批判です。

でも、「圧迫感」というのは建築において避けるべき事だとずっと思っていて、ただそれは鉄骨とガラスで開放的にやれば済むという単純な話ではなく、コンクリートで窓がそれほど大きくなくても圧迫感がないデザインもあるし、たとえば洞窟のような場所で少しの入口が空いている場所は、圧迫感というより良い安心感を覚えるしそれは住まいにとっては好ましい質だと思ってます。
コンクリートという質感と、包まれているのではなくボリュームとしての強さが勝っているからかな、と。例えば豊島美術館(行った事まだないけど)なんて全く圧迫感はなく心地よい安心感でしょうね。
f0157484_122498.jpg

[PR]
by Moriyasu_Hase | 2015-01-31 12:02 | けんちくーよむ

新建築1月

f0157484_17265267.jpg

安藤さんの上海保利大劇場。「ある種のランドマーク性が期待されていた。それに対し、、建物外形による直接的なシンボリズムではない、その内にはらむ空間の激しさを持って存在感を示す建築を提案した」そうですが、うわーさすが中国や、めっちゃ大胆やしお金かかっとるんやろなー。というのはありますが、変なランドマーク性を殺してやったのは良かったんだろうなと思いましたし、コンセプトがきちんと実現できているように見えました。
右上のは槇さんのアガ・カーンミュージアム。アガ・カーンはイスラム系シーア・イズマイリ派の今の最高指導者らしいですが、槇さんに「光を祀るような建物」(光は人々を幸福に導くという教えがあるそう)「外はモダニズム、内はイスラムを感じさせる建築」にして欲しいと要望されたそうで、それがとてもうまくできてます。まあ随分お金がかかっているそうですが品よくまとめているのはやっぱり槇さんですね。これは実際見てみたい(カナダだしまあ無理だけど)ですね。
右下のはアトリエワン設計の、ドイツに現代の芸術家村を自力建設サマースクールのためつくられたメインホール。3年程度は維持される予定らしいけど、仮設建築で、本号に「非施設型空間とネットワーク-ふるまいを解放する建築」という文も書いていますが逆に施設型、というのは20世紀に大量に作られた紋切り型の建築という事で、人間のふるまいもある種紋切り型にさせられてしまう、という意味での「解放」。安藤さん槇さんの「立派な」作品も表現では自由ではあってもやっぱり施設型なのかな。もちろんそうあるべき建築もあるし、「解放」する建築もあるべき。
そういえば昨年末、坂茂さんの講演を聞きましたが、すごくお金がかかってすごく美しい建築と、一方で紙管など仮設で余り美しいとかいう価値軸でないものとすごい巾でずっと仕事をされて来たのを、何故だろう?と思っていたのですが、きっと建築は人間を解放させるためにある、というのが根っこにあるから、お金があればできるだけ活用してとても美しい建築を作ることでそれを見る人々の心を解放させるし、極貧な地域や被災地であれば、まずは最低限のシェルターをできるだけ早く沢山供給して身体を苦から解放しつつ、できる限りのデザインも盛り込む、という事でその極端な両者が坂さんお中では地続きなだけで、でも普通建築家大先生は前者をするのだけが仕事だと思っている、という事じゃないかと思いました。
でもいくら美しくてもお金をかけすぎる事で、例えば住宅だって、公共施設にしたって、自らの首を絞める事になるわけだし、ローンに追われたり自治体だって破綻もするわけだし、そうなっても作家ぶっているのはやっぱりダメなんだと思います。
かと言って仮設的なものやローコストだからといって軽いデザインで良しとする、というのも結局長持ちしなかったり良いと思えなかったらそれはそれでダメだと。
良いものが安くできればいいし、できる限りそれを目指して来たつもりですが、最近建設物価も上昇中で悩みが尽きませんねえ^^;
[PR]
by Moriyasu_Hase | 2015-01-05 18:06 | けんちくーよむ

磯崎新 Interviews/日埜直彦

f0157484_8453345.jpg

日埜くんは実は同じ研究室で苗字も近いからか、卒論の発表等のとき隣の席で、僕の拙い話を聞きながら、そうなの?みたいにからかわれた記憶があるが(彼は忘れてるだろうw)まあ僕の大学時代は、今思えば、ぬるま湯な感じだったけど、彼と出会った事だけはその後の僕に大きな影響を与えてくれています。
何しろ、大学入った頃からドゥールーズ読んできちんと咀嚼してたし、何故そんなに読めるの?と思ったものだけど、磯崎さんも若かりし頃、とんでもなく仕事が忙しいのに夜中にラテン語(だったか?)の書を読んでいたらしいけど、素直な知識欲なんだろうか?僕は無理して読んでる面があるから難しかったりすると睡魔が邪魔してしまう。今まで、同世代で、どう努力しても追いつけないと思わされたのは彼くらいだけど、まあそういう出会いがあって、今の自分があるから感謝しなければ。

磯崎さんは難しすぎて、かつての建築家たちを混乱させ、今ではちょっと忘れられようとされてしまっているような気もするけど、モダンに対するのと同じように、一度はきちんと向き合って乗り越えないといけないんだと思います。学園闘争の時代があったけど、結局敗者は語らず、みたいな感じで僕らには何も伝わって来ないけれど、それがないから、集団的自衛権に僕らが向き合い、議論ができなくなってしまっているのと似た構造にも思えます。
ただ、磯崎さんの書はそれなりに持っていて読んで来ましたが、何故そんな分かりにくくしちゃうの?と感じてしまうけれど、本書を読んで見えてくるのは、磯崎さんもその時その時で手探りで全力疾走しながら記したものだから自分でさえどこに向かうか分からない状況だったようだし、でもそれが振り返ればある軌跡を描いて来ている、というのを、日埜くんが上手にまとめています。
特に磯崎さんの建築に対する認識についてなるほど、という部分を。

・いかなるプロセスも切れ目がない。持続であり、流転である。始まりも無ければ終わりもなく、明確な形をなさぬままにその姿は転変し、不定形なままにダイナミックな運動を続ける。その運動を分節して扱い易いように仕立てる近代主義の手法は所詮このまとまりのなさを覆い隠す弥縫策に過ぎない。
・プロセスの運動を切断するのは、便宜的なものであり、あるいは非論理的な決断である。そして建築はその切断にによりはじめてその姿を定める。その切断の主体が建築家と呼ばれる。建築家は調停者というよりは、事態を切断し、そこに非連続性を刻むことで、プロセスを再起動させる暴力的存在である。
・切断という暴力的行為を取繕い、止揚を装うのが建築という古典的概念である。このような建築概念はいずれ解体されるだろう。

磯崎さんの前に偉大な丹下がいて、その丹下さんが、上記の意味での解体されるべき、でもとても大きな存在だったのが、磯崎さんの出発点だと言えるようです。
また「前川國男の作ったものは建築ではない.建築からどんどん単純な技術、単純な機能の集積、実用物の方に流れて、ビルディングになっている。」ともありますが、つまりは、丹下さんが提示した日本らしさや、前川さんの実用的であること、というのは、それを「信じる者は救われる」的な教条的なものになってしまうという意味で、建築の自立性を奪うもので解体されなければならないというのか。
人間って個としては弱いもので、ついつい強者や権威に寄り添いたくなるというのは否定できないと思いますが、つまりその弱さが建築においても問題であって、常に自覚的にその弱さから逃げようとし続けない限り知らない間に絡めとられてしまって、居心地が良くなってしまうのかもしれないけれど、結局時代が移り、パラダイムが変わるとその居心地の良さが命取りになるし、それは個人にとっても全体にとっても良い事ではないから、やはり「自立」を常に目指さなければならないし、そのためには歴史を知り、現状を分析し、それらに絡めとられないような建築のつくり方を模索し続けなければならない。
その意味で、磯崎さんはそれをやり続けてきた偉大な先輩なわけだし、だからまずはもっと理解する事から始めないといけないように思います。

ただ時代の流れの中で社会が変わり、価値観が変わり、工業の、作る側の論理のモダンの時代から、商業の、消費者が何を選ぶか?によるポストモダン以降の状況になってきた中で、状況はそう単純ではなくなってしまっています。僕は建築についてはずっと残ってしまうものなので、今であってもつくる側の論理で作るべきだと信じていますが、結果、住宅や小さく、密度が高い建築しか手が出せない、やりたくない、という風になってしまっていて、それはそれで逃げているとも言えるので、逃げずに考え続けたいとは思いますし、こういう偉大な畏友がいることがとても励みになりますね。

随分分かり易い書になっている、とも言え、でもまだまだ難解だとも言えますし、僕も全然まとまりなく書いてしまって良くわからんと思いますので、是非買って読んでみて下さいw
[PR]
by Moriyasu_Hase | 2014-12-10 10:26 | けんちくーよむ

漂うモダニズム/槙文彦

f0157484_1871542.jpg

以前新建築に「漂うモダニズム」という文章を載せていて、槇さん85歳超えられたくらいかな、人間ってそんなものかもしれないけれど、少し今までの自分をまとめたり伝えようとしたりされているのかな、槇さんがとても健全に建築のことを考え続けて来られたのが感じられるし、正直建築家の書く文章なんて半分は分からないし分かる必要もないかもしれないようなものだけど、特に本書は概ね読むべき、と言える内容でした。
前にも触れたと思いますが、ウィトルウィウスの用、強、美、の美(Venustas)にいてそれは美と訳すべきでなく「歓び」とでも訳すべきだと最近は考えられている、と紹介しているのだけど、僕はそれはとてもとても大事なことで、でも槇さん以外から聞いた事はない。つまり美とか言って黄金比を持ち出したりするから人間が疎外されてきたように思うし、若い頃アメリカで良い経験をされて戻ってからも代官山ヒルサイドテラスのような、人間に触れるような仕事を続けてこられた槇さんは、表現こそモダンではあるけれど、大切な事を分かってられると思う。
これも槇さんの言葉で好きなものだけど、「独りにとって素晴らしいパブリックスペースとは、また多くの群衆が集まった時にも素晴らしいスペースである」というもので、昨今暴力的な程に巨大な建築やスペースが生まれているけれど、もしここに自分一人っきりだと考えたら、とても落着かない、優しくない場所ばかりだと思えるけど、本当はそうじゃないものをつくるべきだ、ということを教えてくれます。

あと、コルビュジェについて
「コルビュジェほど20世紀において現代が無意識のうちに待望していた新しい空間のレトリックを創り出し、建築に新しい豊かな地平の存在を掲示してくれた建築家はいなかった」
「誰よりも豊かに多義的に空間の存在と創る秘密を我々に解き明かしたのだ」
つまりはコルビュジェを筆頭にそういう時代がモダニズムの時代だったのだろうし、でもそれぞれの建築家が決して一括りにできない世界表現していて、槇さんの表現だとモダニズムが大きな船でそこにはスープで言えば具がしっかりとした形で残っていたのに、それが現在に至るまでに具が溶けてポタージュ化してしまったというのだけど、情報化社会の結末を見れば同様なのだろうけれど、多様化されているようで実はポタージュ化してしまわざるを得ないということだろうか。

モダニズムと共に育ち、回顧されている槇さんの世代から、モダニズムなんて感覚的にも知識としても良く分らないに近いような世代にだんだんなってきているのだろうけれど、まだ槇さん世代がお元気なうちに、モダニズムとはなんだったのか?そしてこれからの建築にとってモダニズムとは何なのか?と問うておかないといけないように思っています。
[PR]
by Moriyasu_Hase | 2014-11-18 18:53 | けんちくーよむ