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Webサイトリニューアルとブログ移転

お気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、先日Webサイトを移転しました。
かれこれ14年前に当時のスタッフが器用につくってくれたものを何とか使い続けてましたが、そろそろ時代も変わり、親しい友人夫妻に依頼して、基本方針は伝えながら、あとは彼らの感性に任せてお願いしました。
併せて、ブログもそちらに移転しますので、こちらの書き込みは最後になります。
http://hase-a.com/blog/


早いもので、事務所をつくって15年。
長いといえばそうですが、色んな意味でまだまだこれからです。
日々の努力を続けてゆきたいと思います。
今まで僕の乱暴な文章を読んで頂いた方々、ありがとうございました。
よろしければ、引き続きよろしくお願いします。
# by Moriyasu_Hase | 2015-06-12 17:15 | プロフィール

日本建築思想史/磯崎新

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僕は44歳になりましたが、40歳上の磯崎さん。周りも聞いておきたかったのか本人も話しておきたかったのか、僕らが聞いておくべき、生きた歴史が語られていますが、実は歴史って学者も沢山いて学校でも散々習ってきたけど、生きた歴史、つまりぼくらがこれからどう生きて行こうかと考える力となるような生きた歴史なんて、それも表向きになならないけど影で働いて来た大きな力が一体なんだったのか?みたいな事ってなかなか触れられないけど、本書にはそれがあります。もちろんそれは、磯崎、という一建築家が1人で背負って来たから言えるというか、つまり裏の部分なんて学者はそう触れられないでしょうし、磯崎個人の責任でももって発言している訳ですから、ズレている部分はあるにせよ、やっぱり生き生きと僕らに迫ってくる歴史であるわけですね。
建築設計を真面目にやってきていれば、どこを読んでも面白いので、敢えて細かい部分は引きませんし、まあ既に語られて来た事もかなりあるので目新しい事が多い訳でもないのですが、聞き手の横手さんの師匠が鈴木博之さんだったこともあり「地霊」や「批判的地域主義」の話になりましたが、それを、「(近代の)根拠でもあった精神が消えたときの逃げ口だった。たんに後ろを向くだけの普通の保守」「建築的思考から逃げた」とバッサリ言うのですが、ここに本当の磯崎というのがあるんだと思いますし、その延長で言えば、建築的思考に向き合い続けて建築をつくり続けられている建築家が磯崎以外にいるのか?となってしまいます。
つまり、もちろん時代やその場所の中で建築は生まれざるを得ないけれど、建築というのはそれ自身で本来自立したものであるべきだし、建築家は自立したものとして思考をしなければならないという事だと思いますし、新たな構造技術や流行に流されたり、エコや、法規などに振り回されたりしてできたものは建築とは呼ぶべきではない、とは僕も信じています。じゃなければ読もうと思いませんがね。
建築家でもないのに建築家と名乗ったり、どうしもない建物を建築と呼んだりするのをやめるところから始めるべきなんでしょーね。
# by Moriyasu_Hase | 2015-06-06 16:58 | けんちくーよむ

新建築6月

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安田講堂の改修。築90年。長いのか?西欧から見れば大した事はないんでしょうけど、こうやって残す価値のある建物があることは建築が文化としてあり続けるためには必要ですよね。ただ、現代建築が90年後に大改修をする価値を持っているか?と言えば、ほぼノーじゃないかと思うと、現代の建築は文化とは言えないとも言えるかとも。。
本号は学校特集で小中一貫校や今時の新しいタイプが色々載っていたんだけど、前から思っていたけど良く作られているCAtの学校など、どうにも子供のための雰囲気じゃないんじゃないかと感じる。
小嶋さんが山本理顕さんを引いて「制度化された空間がまさに子供達への『権力』となってしあみかねないということを、強く自覚する必要もある」と言っていて、確かに空間としてはそうならないようによく考えられているとは思うんだけど、やっぱりコンクリートのスケールの大きい、強い表現に僕はどうも違和感を感じる。ただ唯一、乾久美子さんの七ヶ浜中学校は、子供のための雰囲気をしっかりつくってますが、女性だから出来得たのだろうか。。その雰囲気は学校だけではなく、大人のための場所でも、安心感や落ち着きを感じるために必要だと思うし、もちろん住宅にも必要だと思う。住宅は小さいので比較的必然的にそれが出来易いけれど、大きくなると難しいのか?というところで安田講堂に戻ると、その雰囲気をきちんと備えていると思う。それは装飾だったり素材だったりがスケールが強く感じられすぎないようにしているんだと思うけれど、近代はその部分を切り捨ててしまって未だにそこの大切さが忘れられたままなんでしょう。
ただ、乾さんも装飾を足してる訳では決してなくて、空間全体やディテールのスケール感を丁寧に考えている+ほんの少し素材感を上手に加えているという感じかな。先日竣工した「まぐねっと」でも僕なりにそんな事を考えてはいました。
# by Moriyasu_Hase | 2015-06-02 16:03 | けんちくーよむ

ぶらりと京都へ

昨年からちょっと息が抜けないまま走ってきた感じでしたが、やっと少し一息つけそうだったので、平日に休んで京都へ行って来ました。
テーマは、修学旅行で行ったような所を改めて今の自分で感じてみよう、というのと、多少変わった宿に泊ってみようという感じかな。
それなりに沢山まわりましたが、まあ何枚かだけ。
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平日でもさすが人だらけでしたので、心静かに感じられるようなカットを。さすがこりゃすごいなー。近代現代建築は、この足下にも及ばないんじゃ?そんなことでいいのか?というか、西洋的な建築家という天才的個人ではなく、修練の結果と言える棟梁がこういうものをつくったというか、だから作る事ができた、という事実はもっと真剣に向き合うべきことだと思いますね。
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金閣。いやまあ美しいですね。難しい事は抜きに。時の為政者と職人などがこういう美意識を共有できたからこそなんでしょうけど、こういう日本の美意識は何処へ??
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平等院鳳凰堂。確か行った事はないはずで初めてでしたし、外部の改修をしたところで創建時に近い鮮やかさが見られるという事で行って来ましたが、三十三間堂などでも思いましたが、仏教美術って西洋に全く劣らないというか、ずっと深くて繊細なんじゃないかと改めて思いました。身体の傾きや指の微妙な形の全体として与える印象なんて、バレエとかの芸術に通じる意識を仏師がみな持っていたんじゃないかと思いましたし、その文化度の高さはやっぱり今と比べれば格段に高いものだと言えると思います。

アップし出すとキリがないですが、宿泊は、改修系のこじんまりしたホテルでしたが、ひとつは鴨川に面していて、夜も朝もとても気持ち良く過ごせましたが、環境の良さと、住む人やそのデザインを手がけた方たちのセンスの良さと意識の高さがあるから、街並もやっぱり美しいですよね。

まあとにかく、良いリフレッシュになりましたので、またこれから現場や設計に入る物件もそれなりにありますので頑張って良いものをつくってゆきたい!と思っています。
# by Moriyasu_Hase | 2015-05-18 14:30 | けんちくーみる

「わざ」から知る

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しばらく前に、菊竹さんの「か、かた、かたち」ような事をネットで調べていたら、太極拳と関連させて、つまり誰でも模倣できる「形」を、繰り返す事で、いつしか深い意味をともなった「型」になる、という書き方がされていて、そこで参照されていたのが本書でした。
その時思ったのは、野球の「素振り」。どうやら大リーガーはしないらしく、球打たなきゃ意味ないじゃん、と考えるらしく、でも剣術で素振りを繰り返して来た日本人には素振りはやっぱり意味がある事なんだと思いますが、それが世界の王を生んだとも言えますし、相撲でも柔道でも、茶道でも、まあ基本構造は「形」を無批判に繰り返す事を求められ、いつしか自分の血肉となった「型」となるという意味で日本文化のベースだと言っても良いでしょう。本書でさらに西岡棟梁がいかに弟子に伝えたか?が書かれてましたが、要するに何も言わない。鉋屑を渡して「こうやれ」でおしまい。それが意味するのは教えたくない訳でも何でもなく、教えられるものじゃない、身体で覚えるしかない、という事ですよね。
また、原ひろ子さんという方からの引用だそうですが興味深い部分を
「ヘヤーインディアンの文化には『教えてあげる』、『教えてもらう』『だれだれから習う』『だれだれから教わる』というような概念の体系がなく、各個人の主観からすれば『自分で観察し、やってみて、自分で修正する』ことによって『○○をおぼえる』のです」と。
ここで僕の好きな動物の喩えですが、渡り鳥の群れや、すごい泳ぎ方をするイルカとか、彼らは数年以上生きるので、先輩格の姿をみておぼえ、と、その連鎖をする事によってあの高度な行動ができていると僕は思うのですが、それと変わらないじゃん、ということですし、人間も近代以前くらいまではそうやって色んな事を身につけて来たんじゃないかと思います。
上記の引用に戻りますが、近代以降は、教えるべき学問、という体系があり、それを教える教師というものがあり、という感じで頭と心が引き裂かれてしまったけれど、本書の「わざ」というのはそもそも心身が切り離せない一体のものだからこそ到達できる深み、というのは頭と心が引き裂かれた私たちには決して到達も、もしかして理解さえもできないのかもしれません。
でも、それって運動とか芸術活動とかだけの世界じゃないの?という突っ込みには、みんなで音読をしたり、暗唱をしたりという事が、きっと知識を血肉化する方法だったのでは?と返しましょう。

この歳になってやっと水泳が楽しくなって泳ぐたびに上達したな〜って嬉しがったり、下手なギター弾いたり、波乗りしたりw。。最近やっとそんな精神的な余裕ができたからか、地道に継続する事で得られる歓び、みたいなのをやっと実感できる歳になったから余計こんな事を思うようになったのかもしれません。が、やっぱりすごく大切だと思いますよ。
# by Moriyasu_Hase | 2015-05-13 17:57 | みるーよむーかんがえる