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茶と美/柳宗悦

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柳宗理の父で民藝運動の父。今の僕にはとても興味深く染み入ってきました。
象徴的にはこの表紙の喜左衛門井戸(国宝)と楽茶碗の本質の違い、という話に集約されます。
前者は高麗で単に日常品の飯茶碗としてつくられていたものを初期の茶人が見いだし、というかこれらの「大名物」の井戸茶碗に初期の茶人が啓発されて茶道が起こり、その茶碗を越えようとつくられたのが楽茶碗である。そして茶道の美意識の物差しは「渋い」かどうかであるけれど、前者は無から見いだされた渋さであるけれど、後者はその渋さを目指して「作為的」につくられたものなので全く価値が劣るものだという事です。
柳が始めて喜左衛門井戸を見る事ができた時「いい茶碗だーーだが何という平凡極まるものだ」と感じ「凡々たる雑器であったからこそ、光り輝いたのだ」「これを見過ごす者は、美を見過ごすであろう」と。そしてそれを見事に見いだしたのが初期の茶人であり、利休も含め以降の茶人、そして今の家元たちなどには全くその能力もなく、本来その美を見出すところが茶であるべきなのにどうしようもない状況だ,というような事までバッサリと書いています。また、秀吉など権力者を相手にして始まったから茶が「不純」なものになってしまったし、平民相手の「貧の茶」だったなら、とも言っていますが、僕も茶道にはもちろん興味はありますが、あの権威的な形式的なところが、どうも本質に迫れる気がしないのでその世界に入ろうとは思いません。

そのほか、茶の美が何を目指したのかについて。
「寂」「仏法の言葉であって、本来はあらゆる執着を取り去る様」
「無事は是れ貴人、ただ造作する事なかれ(臨済録)」「無事の美」こそが茶美の至極。
「禅旨は『平常心』にあったのではないか。なぜもっと淡々とつくり得ないのであるか。渋さを狙えば派手に沈む。」

しかしその見る眼というのはどうしたら得られるのか?
「じかに見ることに一番近いものは信じる心である。信じるとは素直に受け取る心である。疑いを先に働かせないことである。疑いは知であり判断である。」と。本来禅と茶は同じところにあるようです。
そして工芸的な美しさが重要でないか、つまり織物や、ビザンチンの美しさもその「模様」によるものでそれは何も美を直接目指したものでなく工芸的な追求をした結果たち現れたものではないか?つまり作家の恣意性などというものからは自由だから喜左衛門井戸が生まれたのと同じ背景をもつ、望ましつくられ方ではないか。ということで各地の素朴な民芸品にスポットをあてた運動につながってゆきます。
ただ、茶道と同じく,初期は良かったんでしょうけれど民藝も結局、形式に堕してしまってますよね。だいたいその辺の「民芸風」なんでどうしようもない。

つまり何でもそうだけど、初期の意図というか感性を常に失わない努力をしない限りすぐ形式化して堕してしまうってことですから本当に気をつけないといけないし、かといってそれを疑って見たとたん「じかに」見ることはできないので、ただ無の心でもって向き合った時に驚きを与えてくれるようなものを見つけないといけないんだろうけれど、流通している商品は無理でしょうけれど、良質なものは余りないけれど日本の古建築などにはまだ残っているだろうから、たまには心をきれいにするためにも行かないといけないですね。

あ。本年もよろしくお願いいたします。
by Moriyasu_Hase | 2014-01-01 12:24 | みるーよむーかんがえる
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