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Ss 邸上棟

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先週末、Ss邸の上棟でした。
画像では分かりにくいですが、道路面の真ん中辺りに、コの字型に1階はガレージ2階に外部デッキがありますので、延べ面積以上に、外観は大きく見えました。
もちろん設計者としては、実際に立ち上がるスケール感を意識しながら設計をする訳ですが、図面も模型も1/50とか、1/100とかというスケールで描く訳で、実際の大きさで立ち上がる上棟というのは、私にとっても、とても楽しみである反面、気の引き締まる瞬間でもあります。
そして、また、上棟式では、施主と施工して頂く棟梁たちや、私たちが一同に、今後の工事の安全と、より良い住まいにしてゆく事を願い合い、ひとつの運命共同体的な信頼関係を結び直すような場でもあり、その意味でも気持ちが引き締まります。

設計当初から意識した事として、全面道路が、広さの割に以外と交通が多く、そちらに対して、うまく閉じながら、いかに内部空間に明るさと広がりを確保するか、というのと、外観としても、目立つ建ち方になるので、品良く抑えめで寡黙な表情にしたいというような思いがあり、道路面には窓が付かないというプランになっています。

また工事の進行に合わせアップしてゆきます。
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by Moriyasu_Hase | 2007-11-28 10:05 | けんちくーしごと

住まいをつくるという事

自分の事務所を持って7年半。主に住宅を設計しながらいろいろな事を考えてきました。
私の先輩達の世代ともずいぶん違った環境で仕事を始めましたし、この7年でも随分環境が変わって来たように思います。
特にネットの環境が特に変わり、ホームページを持つ設計事務所も増え、最近ではブログが流行っています(かくいう私もこのように始めてしまっていますが)。
ある意味で、ハウスメーカのように資本力がなくても、伝える手段が出来、建築主側からも選択肢が増えた、という意味では良い方向ではあると思いながら、どうもおかしいな、と思う事もあって、敢えてブログを立ち上げた面があります。
それは、ブログというのは、発信が簡単過ぎ(だから親しみも湧きやすいのでしょうけど)、我々のような専門家が発信をするには、少し内容が軽薄すぎるのでは??というブログなども多く感じます。
僕の考え方としては、プロの持つ専門性というのは、どうしても、一般の方には説明しきれない深い領域の思想を伴うはずで、伝えきれないからこそ、プロとして、言われずとも死守しなければならない一線があるはずなのに、CMにしても、ブログにしても、分かりやすさ、伝わりやすさが大切で、それによって、住宅、というものをつくる側が決められてしまい、そこには、上に書いたような、プロでなければ守れない一線、という観点が欠如してしまう事は、本来恐ろしい事で、だからこそ、日本の街並みが悪くしかならないのだと思います。
あと、「建築家」という呼ばれ方についてですが、自ら「建築家」と名乗る設計者には気をつけた方がいいと思っています。私の知る限り、この県内でそう呼んで良い方は両手で足りるくらいだと思いますし、それも価値のある仕事をした結果、周りからそう呼ばれるべきで、自ら名乗るべきではないと思いますし、それは謙虚さに欠けるとしか思いません。
気をつけてくださ〜〜い!
謙虚さのない人間に建築をつくる資格はないと思っていますが、本当に謙虚さを持って建築に向き合っている方は本当に少ないものです。その証拠が今の街並みの貧弱さですよね。

ちょっとややこしい話になってしまいましたが、これからも、たまに、今まで住宅をつくってきて、またこれから住宅をつくってゆくために考えている事などを書いてみようかと思っています。
でも、ちょっと僕は堅いのかも(^_^;)本当はそんな堅い人間ではないつもりだけど。。
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by Moriyasu_Hase | 2007-11-25 17:45 | 住まいをつくるとは

村野藤吾の建築

実は明日、いくつかの建築を見学しに行く予定の中に、建築家として最も尊敬する村野藤吾さんの建築もあり、少し本を読み直したりしてました。
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戦前戦後のモダニズム建築の大きな流れの中で、とても異彩を放ちながら多くの優れた建築を残されていますが。
まずモダニズムと大きく違うところは、師匠の渡辺節さんから様式建築を叩き込まれた延長として自分の建築をつくりましたが、何も形を様式的にしたというのではなく、様式というもののなかには、素材や陰影などの物を見るきめ細やかさがあり、それを大切にしてきたということです。村野さんの言い方で言うと「様式の上にあれ」ですし「歴史はフィクション」と言われるように、学ぶべき対象ではありながら、自由に開拓できる対象でもあると考えていたようです。
次に、ガラス(特に大きな)を毛嫌いしていますが、工業的に大量生産ができ、冷たい表情ながらも、その透明性にて、多くの建築家や大衆を魅了してしまうところに大きな危機感を感じていたようですが、一方ではモダニズム建築には大きなガラスは不可欠な要素だった訳ですが。。
モダニズム以降の直線多用の現代建築の傾向は単純生産の産物であり、本来建築が人々へ与えるべき、精神的な良い影響がないばかりか、ストレスを与えるのみだと考えていたようです。
3つ目に、地面から生えたような建築を好んだのですが、モダニズムは、「ピロティ」に象徴されるように、どこに建っても変わらない、という意思を含んでいたことと比較するとスタンスの大きな違いが分かります。
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最後に、時間の経過に対する考え方。
モダニズムは基本的に出来た瞬間のままの外観が続くという前提で考えられている面があり、だから真っ白で、経年の汚れは汚れにしかすぎませんが、村野さんは、建築にうまく歳をとらせようという余裕を与えることを心がけられていて、この、広島の平和記念聖堂(私の最も感動した建築)をつくった時も「これから10年後になったら何とか見られるようになりましょう」と述べたあたりにそのスタンスが分かります。
また戦後初(平和記念資料館とならび)の重要文化財に指定されましたが、実はとてもローコストで、さらに、建設に奔走している神父の姿に打たれ、全く設計料をもらわずに設計されたそうです。
とにかく、人間の精神に深く根ざして建築に向き合っていたと言えますし、モダニズムは(当初はもちろん同じくしていた部分もありましたが)徐々に形式的な、人間の精神を置き去りにしたような方向に向かってしまった中で、村野さんは、それに大きな疑問を感じ、ヒューマニズムを持って戦い続けたのだと思います。
モダンデザインを見慣れてしまうと、滑稽にも感じかねない建築たちですが、その空間に身を置けば、村野さんがあれだけのエネルギーで建築を生み出し続けたことに納得できます。
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by Moriyasu_Hase | 2007-11-25 14:24 | けんちくーかんがえる

スケッチ・オブ・フランク・ゲーリー

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少し前に劇場公開された時に見られず、DVDを買ってみてみました。
ドキュメンタリータッチで、ゲーリーを囲むひとたちがゲーリーを、また本人も語り、誤解もあるのかなあ、と思いながら、沢山のことが伝わってきました。
青木淳さんの言い方で言うと、基壇の上に、銀のウロコを増殖させる、というルールで生まれた、というような建築をつくり、それがとても世界的に評価されています。
他にもクネクネした建築をつくる建築家達は沢山いますが、それは、ただ技術や素材の誇示だったり、人間を置き去りにしたコンセプトの実現であったり、という事で、マイナーな存在でしかないのですが、ゲーリーの建築はある種の大衆性も獲得した、と言えるかもしれません。
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もっとも有名なグッゲンハイム•ビルバオです。
本人も、「魚」というモチーフであることは認めています(人間も昔は魚だったし!)が、それはただ、「自由」を素直に求めただけのように感じます。だからこそ、大衆にもその良さが伝わるのかもしれません。
確かに自然界に直線などありませんし、直線である事を半ば強いられる建築の世界に嫌気がさすというのは分かります。あのモダニズムは、それ以前の西洋の古典的な重苦しい様式建築たちからの自由を求めて生まれました。そして、今、モダニズムが強制した直線による建築からの自由が求められているのかもしれません。
それが、コンピュータによる解析技術の発達と、あとは、ゲーリーが生涯で培ったアートの感覚(ずっと芸術家との付き合いが深かったようですし)が、ゲーリー建築を生み出したのでしょう。

建築における、直線と曲線の問題。もちろん私も私なりにも考え続けてきました。
確かに直線は安易です。比べて曲線はセンスが問われます。
だから、下手な曲線は最悪です(世の中に最悪な曲線の建築もありますよね)。
また、曲線であるべき建築と、その必要もなく、直線がふさわしい建築もあります。
それを見極められるのもやはりセンスです。
最高の直線の建築、最高の曲線の建築、どちらも見ながら自分のセンスを磨きたいですね。
後者の最高峰としてのゲーリー。いつか一度は見てみたいです。
でも、ゲーリーも、ずいぶん苦労したようです。貧乏生活、離婚、カウンセリングを受けて、あそこにまで。。大きな夢を実現するには、避けて通れないのかなあ。。
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by Moriyasu_Hase | 2007-11-22 23:10 | けんちくーみる

Kw邸外観

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少し前に竣工したKw邸、今朝外観を撮影してきました(少し寒かったです)
住まいの中には外部から囲うところと開くところが出来るわけですが、南側道路の場合、道路、ガレージと庭空間がつながってしまっているのは、どうも落ち着かなさを感じてしまい、道路側から少し閉鎖的にした上で、その向こうに中庭的な作り方をしたくなります。
ということで、この住宅も道路面から閉鎖的な代わりに中庭を大きくとって、そこを中心とした内部空間で囲んでいます。
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開くからには、やっぱり大きく軒を出したくなります。そして、その軒は抑えめにすることで、外部との中間領域の軒下空間を、室内的な落ち着いた感覚とし、<中ー外>という感覚を和らげます。
日本の気候だから、必ず軒を出さないといけない、と思っている訳ではなく、敷地状況などの前提条件の違いによって、いろいろ考えているうちに、自然とそうなったりならなかったり。
それはひとつの直感的な部分でもあるのかもしれず、なかなか何故そうなったのか、と簡単に答えられるものではなく、「好きなものは好き」という感じもあります。
ただ、仕事で設計をさせて頂く以上は、そうあるべき理由をきちんと考え、答えられないといけないわけですが、理屈だけでもなく、だれでも「気持ちいい」と思えるものは、理屈をつけなくても伝わるのかな、と思いますし、誰でもが「気持ちいい」と思える空間をつくるということは、実はとても難しく、奥深く、今はそれをもっともっと追求したいと思っています。
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by Moriyasu_Hase | 2007-11-21 21:25 | けんちくーしごと

青木さん講演会

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土曜日に終わりましたが、とても良い講演会と、その後、うなぎを食べながらゆっくり懇親会でお話できました。
講演の中で、「分かりやすすぎる例え話しだからしたくないけど」という節がありました。確かに分かりやすい例えは、逆に誤解も招きやすいし、本当に伝えたい事の深さが伝わらない面もありますが、敢えて分かりやすく青木さんの思考のプロセスを例えると、何万年もかかって進化し淘汰され生き延びている生命体(どんな生命体もそれぞれの環境に置いて輝いています)を、設計期間という限られた時間の中で促成栽培的に強制的に行っているのかな、と思っていて、青木さんにお聞きしたところ、まあ間違っていないようなお返事を頂いたので、嬉しかったです。

敢えて不安定さや矛盾を生み出し、その中で意味の行き来が生まれ、それをルールと建築を生み出してゆくのですが、それはやっぱり、行き先の分からない、進化の果てを知らずに進化をしいる動物のような、旅のようなもののようです。

また、トークセッションで、青木事務所OBの高橋堅さんが来られて、青木さんがいかにスタッフといろいろなキャッチボールを繰り返しながら、その行く先の分からない旅をされてるかが分かり、こんなに謙虚に建築に向き合われている方もいないなあ、なんて思いました。

そんなつくられかたをしている建築だからこそ、実際に、その空間に身を置いてみなと感じられないことが重要なテーマとなっていて、雑誌などの写真では、かなり誤解を招いてしまうようですが、考えてみれば当たり前で、写真で伝えられるなんていうフォトジェニックな建築の方がおかしいわけで、でもメディア社会の中では、フォトジェニックな建築がもてはやされるわけです。。
でも、建築は体で感じて初めて価値があるはずですね。
そんな建築をつくれるように、もっと謙虚に建築に向かい合わないと、、ですね。
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by Moriyasu_Hase | 2007-11-20 01:09 | けんちくーかんがえる

青木淳さんx糸井重里さん

こんな対談がありました
建築っておもしろそう
糸井さんとの対談ということもあってか、青木さんの人間的な部分というか、どんな気持ちであのような建築や文章をつくっているのか、という事が分かりやすかったです。

子供の頃から、儀式的なこと、制度的な事、型にはまったような事が嫌いで、こうしたらこう感じる、みたいな定型的なものではなく、個々人の気持ちよいと感じる場所や建築をもとめて来ている、と書いてしまうとごく当たり前のようで、でも実は、今までの建築界というのはそういうものに価値を置いて来ていなく、ある種エコールデボザール的な古典主義というか、権威主義的なものをずっと引きずっていた中で、素直にそういう発想で語る建築家は余りいなかったですね。。

また、建築とは、矛盾を見つけ、解決することだと。。
世の中や、身近なところにでも、沢山の矛盾、というか本当は解決したい事が沢山あるはずだけど、それから目を背けて、模範解答的に思われていることを無批判に実行することで安心している事が多い。。でもそんな考えだから、世の中なにも良くはなっていかないわけですね。
そして、建築とはルールを見つけることだと。例えとして、サッカーなどあげられている訳ですが、スポーツは、あるルールがあるからこそ、逆に多様な結果が生まれ得て、熱狂できるわけで、建築も、ルールがあって初めて、ずっと気持ちよくつかう事ができるものを導けると。。ただし、青木さんの場合はルールを決めてもあとオートマチックに導かれる訳ではなく、恐ろしい数のゲームを行ってみて、そこからやっと導かれる、という前提だとは思いますが。

また、工場地帯のように、「人にどう見えるか」を意識せずにつくられたところにこそ、「こちらに分からない理由であるものがとてもきれいだった」と感じさせる魅力があり、逆に、人目を気にしたものは、ただ記号の操作をしているに過ぎず、何も新しさがない、と言われています。
なんだか様々なメディアが建築を取り上げるほどに、そんな人目を気にした、スタイリッシュな建築が幅を利かせてきているわけですが、スタイリッシュは悪くないですが、それが目的になってしまっているのは、軽薄すぎない??と思うわけです。

読んでみて、な〜んだ。発想は素朴なんだ〜と思ったりしてしまいますが、だから素朴な感性だけで建築ができるか、と言えばもちろんNO!で、様々な理論や知性や感覚をベースにした上の素朴さ、というべきか。知識も経験も大切ですが、でも最後にそれを統合できる、健全な感性を失ってはいけない、という事だとも言えると思います。


土曜日が楽しみです。
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by Moriyasu_Hase | 2007-11-13 23:02 | けんちくーかんがえる

成城タウンハウスby妹島和世さん

f0157484_21383150.jpg11月の新建築の表紙を飾っています。(毎月表紙の建築を取り上げようかと。月一度なので、続かなくても三日坊主とは言わない??)
妹島さんは、以前に有名な、岐阜県の北方住宅という公営賃貸住宅で、新しいあり方を提示され、その後の集合住宅に結構影響を与えましたが、ポイントは、今回は分譲である、ということと、タウンハウス(日本語では長屋建てとでもいうのか)であるということです。
元々、建築家の山本理顕さんが審査委員長のコンペで選ばれたものなので、やはり強い提案性のものになっていますが、やはり、分譲住宅というだけあってか、大成建設の設計部が設計に参加しています。おそらく、分譲住宅ということもあり、いろいろな意味での信頼性を買ったのでしょう。。


また妹島さんは、レンガを使ってみたかったと言っていますが、分譲住宅というある種の記号性にはレンガ(張っているのでタイルだといえばそうですが)がお似合いだったのかもしれません。
f0157484_2142799.jpgまた、タウンハウスという種類の建築自体は実はそれほど多くつくられていないと思いますが、それは日本人が基本的に一戸建てを好む傾向があり、中途半端にくっついている形式としてのタウンハウスが受け入れられにくいからでしょうけれど、実際は、一戸建てで出来る、間の中途半端な土地が、有効に使える、という意味で、タウンハウスには低層で良い外部空間を生み出す可能性がありますし、この建築でもそのあたりが当然テーマとなっています。
小さな分棟がと小さな外部空間が市松的にばらまかれているわけですが、内部の住戸はその分棟を横断して、各住戸がまたがっていて、一つのボリュームの中に1住戸を入れるよりも、外部空間が様々な面で接することになるのが狙いかな、と思いました。
また、窓も大きく取られてはいますが、他の住戸とは壁と窓の位置を慎重にずらし、同じ外部空間を囲んでいても、それぞれに占有しているような見え方をしていると思います。

f0157484_21513725.jpg私も、ずっと、タウンハウスの可能性を思っていて、ちょっといろいろ調べた事もありましたが、やはり、外部空間を合わせることで少しでも豊かな外部空間をつくるということよりも、隣の敷地と権利関係がバシっと切れて、お互い気遣うことなく生きて行けるほうが良いようで、日本では(特に地方では)ほとんどつくられない状況です。

少し前の、西沢立衛さんの「森山邸」は単身の賃貸ですが、このタウンハウスは分譲ですので、今後入居者達の小さい子供や老人達が生活するなかで、外部空間がどのように活かされ、どんなコミュニティが出来うるのか、ということに大変興味があります。
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by Moriyasu_Hase | 2007-11-11 22:07 | けんちくーよむ

青木さんと図式

先日、空間図式についての青木淳さんの文章についてかきました。
一方で、新建築の3月号に青木さんによる「図式の崩壊から」という記事がありました。(Y君に言われて思い出し)
その「崩壊」というのは、もう図式的な建築の作り方に限界がある、という意味でなく、青木さん自身の建築のつくりかたに図式的なものを手段としないようになった、という事です。

「建築とは、ある特定の世界を、ぼくたちの現実世界の中に、現実の物質や空間によって定着させること」であり、その世界とは、そこにいる人がもつであろう「ひとまとまりの感覚」と定義されます。
f0157484_16562969.jpg一方で、図式的にその「世界」を実現させている例として、せんだいメディアテークを挙げていて、とてもその世界を実現しているものであると評価します。この模型写真を見ても分かりますが、大変図式的ですね。
一方で、青木さんは、図式ではなく、ルールを手段として、同じ世界に近づこうとしていますが、どちらにしても、図式も、ルールも、あくまで手段にしか過ぎないもので、その「世界」につながるようにその手段を「研ぎ澄ます」ことが、建築です。

青木さんは、あらかじめ行為が決められていないような、その場所を使うことによって使い方を発見できるような質を持つ空間として「原っぱ」的なものを目指されていますが、その実現のためには、図式的なものでは強すぎで、様々な意味が不安定なまま行き来するような中でたどり着く事が必要なのだと思います。
青木さんが実現されたいのは、「いまだ知らぬいろいろな世界がどこまでも広がっていて、そのどこにでも居られるけど、今はここにいるし、ここに居てよいのだ」という感覚だそうで、確かに昔原っぱで(私はかろうじてそんな世代で。。)遊んだ時の感覚はそうだったんだと思います。
そんな原っぱや、廃校となってしまった空間(それを違った用途で使う)のように、結果的に出来てしまったものの空間の質を、意識的に生み出すというのは、この合目的的な世の中では難しいですが、そんな世の中だからこそ、「原っぱ」のような空間が逆に必要なんですね。

ただ、フリースペースをつくっておけば実現できる訳ではなく、そうなるためには、ある空間の質が必要だから、ただ意味のないフリースペースをつくるのはやめましょうね!!

f0157484_1732435.jpgちなみに青木さんの講演タイトルは「青森県立美術館・以降」です。恐らく、そのあたりの建築のつくりかたについて、ひとつの転機として意識されているのかな、と思います。
ただ、この青森の図式的な絵は、図式としては位置づけられていないそうで、図式であれば、この断面からその後の平面などが展開できるのでしょうが、それが出来ず、上記のような「意味の行き来」というようなルールによってその後の設計が進んだという事です。
でもそのようなルールで設計を決めてゆく、というのは、想像しただけでも恐ろしい時間とエネルギーを費やしたのだろうな、と思います。
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by Moriyasu_Hase | 2007-11-11 17:37 | けんちくーよむ

かたちの根拠ー情緒、感覚

少し前の住宅建築の建築家の対談の中で、数学者、岡潔さんの「情緒的知性」という言葉が出ていました。
西洋的な論理中心の思考法を「論理的知性」と呼び、東洋的な情緒的な思考法を「情緒的知性」と呼んでおくとする。「情緒的な知性」は、部分的な論理よるのではなくて、全体的な直感把握から事体を把握しようとする。という事らしいです。
また、数学の理論にしても物理の理論にしてもあらゆる思想がそうだけれども、それは人間がつくりだす創造的な思想が生まれる部分というのは、情緒的な直感の部分が最初にあって、これが全体をまずつかみだしているそうです。

青木さんの「図式」は感覚を伴ったもので、感覚が抜け落ちると「形式」になってしまう、というのも同じなのかと思いましたが、論理的に部分を積み上げても人間が求めるものには到達できず、やはり、その人間が生きてきた感覚を総動員した直感的なものから、深いものが生まれ得る、という事ですが、それはそうだと思います。

なんだかそんな意味では、建築雑誌の載っている建築たちは、そんな生まれ方をしていないような、、「論理的知性」によって出来てしまっているために、頭では理解できても、感覚的にどうも馴染めないかたちになってしまっているものが多いように思います。

ただ、今の時代、なかなか「直感」というものが育たない、活かせないように思います。
でも、やっぱり、人間、本当に大切な事を決めるのは、やはり「直感」だったりします。
もっと自分の直感を磨き、より深い創造を行ってゆきたいと思います。
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by Moriyasu_Hase | 2007-11-09 23:42 | けんちくーかんがえる