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セントラルパーク構想。雑感

まずは担当の緑政課から頂いたお返事。
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 セントラルパーク基本構想(案)に対しましては、平成24年度のなるべく早い時期に市民の皆様から意見をいただく機会を設けてまいりたいと考えておりますが、現段階では予定をお示しできる状況とはなっておりません。
 現在、庁内において、市民の皆さんにご意見いただける内容へと取りまとめている状況であり、スケジュールにつきましては改めて検討をしております。
 皆さんからの意見をいただく方法やスケジュールにつきましては、決定次第、広報等を通じてお知らせをしていく予定となっております。

 今後も、市民の皆様方のご意見をお聞きしながら、取り組んでまいりますのでご理解をいただきますようお願いいたいます。
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3/26の最終の検討会議事録はアップされましたが、構想の素案はその会議で何らかの修正があって改めて出て来るかと思ったらどうやらそのままらしい??とその会議は一体なんだったのだろう?
ということで改めてその素案を読み直してみても、基本構想だからこんなもの?なのか、どうもとらえどころがない。
一方で安藤さんの提言についてた図ですが。
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この1000万程の業務委託については「説明不足」だったし「こだわらない」などと市長が言われたそうなのですが。。
まあ概ね市の素案と違ったものではないけど、ただまだ市からすると具体的すぎる(つまり批判を受けてしまう)という事だったのかもしれないですね。こんな具体的なものは要らなかったのに、1000万払ってしまった。そして市民などから余計な批判を受けてしまった。そんなところ?だから今後どうしたもんだろうかと庁内でなかなか決まらず、上記のお返事のような状態なのかな?

まあ市の素案はまだ具体的じゃないけど、具体化して来たら安藤案同様に、「楽観的」なものになってしまうように思います。中心市街地も10年前より歩行者が半減したようだけど、その10年前と比べれば更に。。とそれに今後の大変な人口減の時代の合わさってくる中で、「楽観的」に過ぎると思う。康友市長は政経塾1期生だそうで、「浜松の公共施設を全部数値化して無駄な施設は消そうとか。まさに経営なんです。松下さんが教えてくれた事」と語ったそうですが、そのまさに同じ目でこの構想を見直して頂きたいものだと思う。

もちろん安藤さんだからどうとかじゃないし、構想自体に反対なわけじゃないですが、3点、「人口減の時代に入るということ」「浜松城公園はとても起伏があったり見通しの良くない公園だという事を逆に生かす事」「中心市街地活性化の一環と位置づけているようだけどその道中はとても歩く気にはなれない」という事から目をそらさずに必要な事を進めるのであれば1人の市民として賛成し、力になりたいと思います。
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by Moriyasu_Hase | 2012-05-31 14:32 | 浜松のこと

A+U創刊500号

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創刊40年程ということは僕が生まれた頃だ!
たまにしか買いませんが、「言葉とイメージ」という本号、今まで建築の世界で放たれた重たい言葉たちが再び集められていて、まあ買っとこうかと読みましたが、やっぱりある程度読み流しました。

大学で建築を学び始めたのはもう20年も前ですが、その頃は「ポストモダニズム」の難解な言説が巾を利かせていて、なんだか違和感を感じて断片的にしか読んだりもしていないので何か理解できているわけではないのですが、建築評論家が書いたピーターアイゼンマンとジャックデリダの「ディコンストラクション」の3つのテーマとして書いていた事が目にとまりました。
1.すべての作品は確定不可能である。
2.作品に対する伝統的な考え方はテクストの確定不可能性を抑圧する。
3.テクストの確定不可能性を妨害しないような仕方で作品を作る事が望ましいし、可能である。
という3つなのですが、これって、モダニズム以降の考え方の底流にずっとあったものだったんじゃないかな?と思いました。そしてその実現のベクトルや手法が違っただけなのでは?と。

「既知のイメージや再記述されなければならない諸対象によっては了解不可能な建築を、ヘルツォーグとド・ムロンは建てている。それらは、前もって構想されたあらゆるイメージを、従ってあらゆる先入観を逃れている」というのと基本的には同じことのように思う。
それはコルビュジェから伊東豊雄(出てたので、それ以上の意味はないです)まで変わらないようにも思うんだけど、どうもコールハースだけは違う次元にジャンプしているように思いますが。。

とても消化不良のままだけど、それでも読むのを諦めてはいけないと心がけてはいるつもりですが、やっぱり消化不良。
でも、少しでももがくことで「作品に対する伝統的な考え」にかろうじて飲込まれずにいられるし、それはとても大切な事だと思っています。
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by Moriyasu_Hase | 2012-05-30 18:56 | けんちくーよむ

怒りの葡萄

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以前見たはずだなあ^^:でも今回はとても印象が強く、名作だなと思いました。
1940年の米映画。舞台は1930頃のオクラホマ州。砂嵐で荒れる土地の小作人がブルドーザーのような機械化農業への転換の中で追いやられ、カリフォルニアには葡萄などを摘む仕事が沢山あると聞きつけ大家族で遠路ゆくのだけど、人を人と思わぬような搾取の現状に驚きながらもやむを得ず。。

何となく僕の中ではアメリカって、先住民を駆逐して、アメリカという独自の国家を築き、その価値観を世界に押しつけ、ある種搾取の根源のように思っているのですが、そのアメリカも成立過程でこんな風だったんだっていうのが、妙な発見をした気持でした。当たり前といえば当たり前なのですが。

今の社会って既に搾取なんて当たり前だからそんな言葉使わなくてもいいじゃん、って感じになっているように感じさせられているように思いますけど、この中には、なんだか生々しい搾取を感じました。
あと、「怒りの葡萄ーThe Grapes of Wrath」ってタイトルの意味は日本人には何のこっちゃでしょうけど、葡萄というか葡萄酒というのはキリスト教では血であったり、葡萄酒をつくるには葡萄を足でグチャグチャ潰したりするという意味で潰される葡萄側からしての「怒り」であるとか、そんな深い含意があるようですし、この映画の中でもそんな怒りが少し顔をのぞかせながら、最後には人生ってこんなもんだよ、的な話だったように感じましたが、葡萄はしょせん踏まれるものだという、人間は葡萄なんだよという事なのだろうか。。多分誰しもが搾取なんて望まないだろうけど、根本的に日本人とは違う感じ方をしているんだろうなと思いました。
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by Moriyasu_Hase | 2012-05-28 16:51 | みるーよむーかんがえる

天災と日本人

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「天災は忘れた頃にやってくる」というのは直接寺田寅彦が記した言葉ではないようですが、その趣旨の言葉は繰り返して来たようで、寺田の言葉をもっときちんと受け止めておれば東日本大震災での被害も随分減っていたはずなのに、という感じで震災後時々見聞きする書でした。
でも、大切なのは何故「忘れた頃」というが、恐ろしい痛い目に遭ってもいつしか忘れてしまう国民性なのか?という点であり、本書はその点についてなかなか考えさせてくれ、原発の再稼働や節電やで揺れている今こそ読んでみると良いかなと思いました。

昭和10年頃、つまり80年近くも前に書かれたけれど「科学者の目から見れば実に話にもならぬほど明白な事柄が最高級な為政者にどうしても通ぜず分からないために国家が非常な損をしまた危険を冒していると思われる」なんて、その頃から変わっちゃいないんだなあと思わされましたが、今の原発ー節電の混乱の原因はそこにこそありますよね。
ただ何故そうなったかというと、日本は地震や台風といった自然の超越的な力の前で「服従」する事を自然と身に付けてきて、一方でそのような災害までない西洋は自然を「克服」する合理的な「科学」を育んだけれど、それを形式的に輸入した日本人は身にしみた自然観を変える事もできずつまり科学を上手に使う事ができない、、とそんなところです。
教育について「いわゆる理科教育が妙な型にはいって分かりやすいことをわざわざ分かりにくく、面白い事をわざわざ鹿爪らしく(堅苦しく)教えているのではないかという気がする。子供に固有な鋭い直感の力を利用しないで頭の悪い大人に適合する様な教案ばかりを練りすぎるのでないかと思われる」というのはその通りだと思うし、もともと自然に対する特異な感受性を持っていた日本人、つまり感性で生きるタイプの人間につまらぬ理屈を叩き込んで、感性でも論理でも判断できない中途半端な人間に育ててしまった、という状況にも似ているのではないでしょうか。
でもやっぱり、何でもそうだと思うけど、こんがらがった状況を正常化するにはまず教育から見直してやり直さないと小手先の対応になってしまうと思うし、だから、上記にあるような意味で、感性と論理を上手く結びつけた教育というのが今こそ必要なんじゃないかと思います。

僕は暗記ものとか苦手でしたが、自分なりに理屈が分からないと前には進み無くない性格だったようで、不器用で回り道だったかもしれないけれど、今はそれで良かったかなと思ったりもしています。言葉を変えると「何故何故??」という子供的な質問にきちんと答えられる大人が増えないとやっぱり良くないんじゃないかと思っています。
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by Moriyasu_Hase | 2012-05-21 15:56 | みるーよむーかんがえる

走ることについて語るときに僕の語ること

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おこがましいけど、僕の思考回路は少し村上春樹さんに似てるなと感じていました。
ただフルマラソンや果てにはトライアスロンを目指し毎日走って来た、それももし出来れば墓に「村上春樹 作家(そしてランナー)1949-20** 少なくとも最後まで歩かなかった」と刻まれることが望んでいることだ、という人間が何を考え、どう走って来たかを記した「だけ」の本。
前書きにある「痛みは避けがたいが、苦しみはオプショナル(こちら次第)」つまり「『もう駄目』かどうかは本人の裁量に委ねられている」からマラソンを続け、それを通じて大切な事を学んできたと。
一方で、若くして華々しくデビューしても歳を重ねて輝きを失ってしまうような作家ではなく、逆に歳を重ねるごとによりよい作品を生み出せるように走ってきた、という言葉もあり、それは全く僕の設計という仕事にも重なることでもあり、僕もそうありたいと思って来ました。

歳をとると「経験」だけは積み重なり、社会や組織の中ではそれはそれで大切でもあるから、だから逆に歳を重ねるに当たって、必要以上の努力を忘れてしまっているんじゃないかと常々思います。
だから、もちろん体力や集中力、そして感性なんてのは若い方が強かったりしますから、特に芸術系では若い頃に輝き、そしてその彼彼女も、歳を重ねると普通のひとに変わってしまっていたりする。

でも村上春樹さんみたいな方がいると、歳を重ねることにより前向きな気持になれます。と書きたいところだけど、あんな毎日走ったり自分を追いつめたりできません^^;

ここ数年、週2回泳いでいますが、まだまだ足りないなというか、ちょっと本気で走ってみたくなりました^^
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by Moriyasu_Hase | 2012-05-19 13:34 | みるーよむーかんがえる

海を飛ぶ夢

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若い頃海に飛び込み首の怪我から寝たきりの20数年を過ごし、尊厳死を主張し最後には遂げる。
僕は尊厳死はあってよいというか、あるべきだと思う。
その前にもちろん尊厳死、という言葉の定義がしっかりと必要だけど。
僕は基本的には、人間の価値というか、特質として、自ら何かを選びとることが出来る事、裏返せば選びとらざるを得ない事だと思っているので、生きる事とコインの裏表の死ぬ事というのも、主体的でさえあれば(そこが不可欠だけど)選びとることは人間らしさなんだと思います。
と、そんな単純な議論ではないのは承知ですが。

でも、その「主体的」というのが日本人は苦手なんだろうな。
という僕も苦手でした、というか最近になってやっとその辺りの事が分かってきたように感じます。
でも周りの大人は誰も教えてくれなかったなあ。。直接教えるという意味だけでなくそれを感じさせてくれもしなかったというか。。平均で言って失礼だけどやっぱり高度成長時代にはそんな感性は邪魔でしかなかったのかもしれないと思います。

でもやっぱり身の回りの大人がそんな事も次世代に伝えてゆかなければ、やっぱり良くないと思います。
なんてことを考えさせられました。
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by Moriyasu_Hase | 2012-05-17 23:08 | みるーよむーかんがえる

陽の当たる教室

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とても良い映画だったと思います。
本当は作曲家になりたかったのに嫌々教師を始め、でも音楽を通じて教えるという事がいつしか生き甲斐となる。また生まれた息子が聴覚障害だったために親子の関係も壊れかけるが、最後は音楽を通じ、心を通わせるようになる。というような話です。
大きなストーリーも良いですが、ベトナム戦争で生徒の1人が戦死したり、ジョンレノンの殺害の話が絡んだりと、細かな部分でも色々と感じる事ができたので、全く飽きずに見られました。

本当は望んでいた事が実現せずに違う現実の中で行きていかなければならない時は誰しもありますが、形は違えども大切な事を見失わずに向き合っていれば、その違った形の中に生きている意味が見えて来るのかなと思います。
そしてその大切な事というのは、当たり前ですが、お金やモノとかではない。
音楽や芸術がどこの国でもいつの時代でも大切にされているのはやはり琴線に触れる何かがあるからでしょうけれど、それが授業とか、有名だから、という形式になってしまうとその力も失ってしまいますよね。
音楽や芸術に限らず、身近な人たちとの交流や日々の自然などと接する事でもそんな琴線に触れる事はあると思いますし、やっぱり生きている意味というのはそこにある、というかそこにしかないと思うから、音楽や芸術や、そして生きる事の本当の楽しさを伝える事ができる人間が、この主人公のように多くの人々から愛されるんだと思いました。

皆さん、もっと生きている事を楽しみましょう!
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by Moriyasu_Hase | 2012-05-15 11:33 | みるーよむーかんがえる

セントラルパーク構想/提言

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浜松市のHPに、安藤忠雄さんの「最終提言書」と検討会の最終議事録がアップされていました。
先日市長も、その提言業務について、説明が足りなかったとコメントしたようですが、それも検討会で委員に散々指摘された結果でしたし、1000万程の依託だったようですが、これが今後示されるはずの最終基本構想にどう反映され、今後に活かされるかは曖昧なようです。

まあ、この内容については、少しでも多くの方に読んで、何か思われたら今後少しでも何かを発信して頂ければと思い、特にこれ以上の僕の意見などは置いておきます。

でも、今回の検討会の議事は、委員の要求があったからだと思いますが、本当に発言がそのままなので、読んでみると面白いですよ。特に、「商業者が云々」などのくだりですが^^
長いものには巻かれろ、の文化というか、本当に長いものならまあ巻かれてもいいですが、長くもないのに虚勢を張ったものに巻かれると、後が目も当てられないですよね。
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by Moriyasu_Hase | 2012-05-07 16:53 | 浜松のこと

それでも、読書をやめない理由

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何となく落ちは読めていたような、でも読みたかったのは、多分作者も漠然と結論は分かっていながら本書を書いたのと同じで、改めて自分に言い聞かせたかったのかもしれませんし、同じ気持の方がいれば是非読んで欲しいと思います。
まず現代の特徴として「わたしたちは、自分たちが今まさに、そのただ中にいる問題についてさえ解説を求めたがるのだ。今まさに自分たちが主役である世界についてさえ、こと細かに知りたがる。4年間の任期の半ばも過ぎていないというのに、どうして大統領としてのオバマを評価できるだろう?」
「仏教徒たちは、水を描写するには泥が沈むまで待て、それまでは水の本質はみえないと説く。だがオンライン上では浮き上がった泥が鎮まることはない」
また、本と映像の本質的な違いとして、「本が内側から外側を照らし出すものに対し、映像はその逆なのだ。言葉とは内的なものだ。私たちは、他者の記した言葉から、自分なりのイメージや映像やリアリティをつくり出さなくてはならない」。補足すると映像って文字の何百倍やもっと多くの情報を(電子書籍と、それが映画化された映像のそれぞれのデータ容量を考えてみれば)必要とし、その映画監督が文字では読めない様々な特徴を恣意的に付加するので、見る側はそれを創造的に見る必要がなく、それもあるから映像って見ていて楽ちんなのかなって思います。だからこそ「読者は本と一体化する」ことを求められ「深い読書は決して受動的行為ではありません」という。

また「紙の本はわたしが集中できるよう助けてくれる。読書以外にすべきことは何も提供せず、目の前でページを開いて横たわり、わたしが目を落とすのを静かに待っている」と引きネットに氾濫する活字たちや、電子書籍との(様々な機能が付加されつつありますよね)大切な違いを思いつつも、フィッツジェラルドの「本物の知性の試金石は、相対する意見を同時に考慮しながら、なおかつ自分に化せられた役割を果たす能力があるかどうか」を引きつつ、「もしも、電子書籍が、人と本が再びつながるように促す力を持つものだとしたらどうなるだろう?」と可能性も感じていることは認めています。

そして結びの言葉として「最近、わたしはこれを静かな革命の試金石ととらえている。静かな革命とは、、、何かと注意が散漫になりがちなこの世界において、読書はひとつの抵抗の行為なのだ。そして、私たちが物事に向き合わないことを何より望んでいるこの社会において、読書とは没頭することなのだ。読書はもっと深いレベルで私たちを結びつける。」

時々仕事中にデスクで長い、深い文章を読もうとしてもなかなか頭にはいって来なくてイライラしたりするのですが、そんな時はやっぱりデスクを離れて集中できる環境(アンプラグドですね〜)で読まなければいけないなあとか、読書中に横にスマホがあるとやっぱりダメだなあとかずっと思っていたので、この書を機に、読む時は本だけに向き合うように努めようと。

どんな人生にも少しは他の人を感動させたり学ばせたりする部分があると思いますし、本も同様だと思います。
自分の人生は一回きりだけど、読書をすることで他の(それもとても内容のある)人生を、短い時間に生きることができるなんてすごいことだなと思うけど、もちろん一方でそれを感じ、考える力があるかどうかでその読書という経験が薄っぺらにも、本当に豊かなものにもなり得るのだと思います。でも、世に溢れる断片的な情報たちからは(ほとんど)それを得られることはできないでしょう。
上記の「抵抗」や「革命」という言葉は僕も本当にそうだと思いました。
それは読書に対することだけではなく、建築という世界もそうで、情報が溢れ、本当に深みのある建築に向かい合う機会や能力が益々無くなっていっているように思える中で、同様の抵抗をしたいなと常々思っています。
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by Moriyasu_Hase | 2012-05-05 15:28 | みるーよむーかんがえる

ラースと、その彼女

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アホらしいと言えばものすごくそうなんだけど、とても良かったです。
ラースは多分うまく人間関係を築けずに育ち、ある種の女性拒否反応を備えてしまっていて、ネットで「リアルドール」を買ったというか、それが生身の彼女だと信じ込んでしまうのだけど、最初周りもドン引きするけど彼の人間性を周囲が愛していたからこそ、それを受け入れる演技を始め、いつしか演技を越えてひとりの女性として接し、そんな中で同僚の女性に心惹かれたりしながら、最後にはラースはそのドールの彼女を失う決意を(とっても無意識の領域なんだろうけど)する。
アホらしいんだけど、僕もそんな面が正直あるけれど余り上手に人間関係を築けないように育ってしまうと自分の世界にこもりがちになってしまうし、それって自分の努力ではなかなか克服できなくって、周囲の愛情があって初めてなんとか好転できるというか。

ラースの周囲の人々が本当に人間臭くて、暖かくて、それがなんか心を打ちました。
でも現代ではほとんど失われかけているものですよね。だから病む人間が多いのかな。。

良かったら観てみてください。
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by Moriyasu_Hase | 2012-05-04 22:28 | みるーよむーかんがえる