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きみがモテれば社会は変わる。

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タイトルがアホですが、宮台さんは権威的なものに対して平気で、アホとかクソとか言うので信用していますw
読めば分かりますがモテるための本じゃないし、今の日本はクソみたいな社会なんだとガッカリすると思うけれど、それを何とか変えるためにも、きみがモテるためにも、サブタイトルの「内発性」こそが重要だ。という話です。
アリストテレスが言ったという良い社会の定義は、「徳」のある者があふれる社会であり、その徳とは「内から湧き上がる力」それが内発性だし、その意味での良い社会こそ目標とすべきだと。
しかし特に日本はそれができて来なかったから「クソ」なんですが、何故そうなってしまったかというと、「任せて文句を言う」体質、つまり自分では何も考えたり行動したりするという自立性を持たない依存野郎だから、という事で、すぐに大きな声(経済だけを重視した政治や資本など)に疑問を持たずに信じてしまう。
その例として興味深い話は、かつて?流行った「スローフード」という言葉は「顔の見える範囲の人に向かってつくっているんだから、いいものをつくろう」そして「顔の見える範囲の人からいいものを、スーパーより少し高いお金を出しても買おう」という北イタリアから起きた運動だったらしいのですが、アメリカの巨大スーパーのウォルマートがその運動に恐れをなして「ロハス」という戦略で「巨大スーパーが有機野菜をつくりますからご安心下さい」と始めた者をアホな日本人は真に受けて、つまりスローフードの本質を全く失って表面のスタイルだけとして受け取ったと。
もう一つ興味深かったのは、何故環境を保護しなければいけないのか?に関し、アメリカのキャリコットという学者が「場所をひとつの主体としてとらえ、人を場所という<生き物>への寄生物だと考える。その上で<生き物としての場所>にとって自然なものを許容し、不自然なものを許容しない。そうすることで、単に人々のニーズに応える場所より、結果的に、そこに住む人々の<幸福と尊厳>を保つ事ができる」という考え方を提唱したそうですが、これは圧倒的に大切な考え方だと思いました。

まあそんなアホな日本人たちは「経済を回す」ことで結果「社会も回る」と信じているようだけどそれは無理で、だから結果、人口比、アメリカの2倍、イタリアの4倍の自殺者がいるのだ、というのはその通りだし、経済を回しながら社会も回す、つまり日本人がもっと「幸福」と実感出来る社会にするには、やっぱり「内発性」を備えないといけない、という事ですが、若い世代になるほどそれは失われつつあると宮台さんも嘆いてますが、その原因は、社会が多様化し過ぎて、なんか自分でなくてもいいじゃんという、つまり誰からも認められていないと感じやすい社会になってしまってきたからであるし、だからこそその認める(承認しあう)という事を取り戻してゆくためにも、スローフードの本質的な考え方のように、ある程度小さな地域での「共同体自治」が必要だという事です。

古書でほぼ送料で買ったのですが、面白かった。
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by Moriyasu_Hase | 2014-02-23 18:41 | みるーよむーかんがえる

進化とはなにか/今西錦司

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1976年の本で、僕が買ったのも20年程前で、読み返してみたくなりまして。
その後も進化論も変わって来ているんだろうから古い話なのかもしれませんが、正統派のダーウィン進化論に異を唱えた数少ない方だったようです。
分かりやすく言うと、キリンの首が長くなった事について。
ダーウィン理論だと、元は馬くらいの首だったものから突然変異で様々な形のものが生まれ、つまりは中には短くなったり、太くなったり、下に垂れたり上に反ったり右に曲がったり、その中で高いところに食料が確保しやすい環境だったから首の長いものだけが生き残り、それらが交配する中で首の長い種として落ち着いたという。
それに対して今西理論は、実際そんな事をしていたらバクチみたいなもので、種として途絶えかねないし、種の保存という観点ではそうあってはならないし、高い所に食料がある環境だったら、種全体として首の長くなる方向に変異してきたはずだ、と乱暴に言うとそんな感じですが、それは種がある意味「意志」を持っていたとも言えるもので、科学的進化論のダーウィン派は決して受入れないものだと言えますし、今は良く知りませんが当時は圧倒的にダーウィン派で、今西さんも嘆いていたようですが、学者というのは今も変わりませんが大きな強い理論なりがあるとそれに楯つこうとは決してしない中で今西さんは孤軍奮闘していた、という感じだったようです。

ただ、20年前に読んだ時から僕は今西さんが正しいと何となく感じていて、最近も相変わらず生物好きで色々読んで来たりした結果、さらに意を強くした感じなので改めて読んだわけです。
例えば先日BSで、花びらそっくりのカマキリがでていて、本当にその環境にある花びらそっくりなのですが、そんなものが無方向の突然変異からたどり着けるものでしょうか?それはその花に寄ってくる虫を見てそのカマキリの種としてその花に擬態しよう、と意志を持たなければあり得ないでしょう。
また何故シーラカンスはほぼ変わらず数億年?もいるのか?ダーウィン理論だったら定期的に突然変異をして同じ形をとどめないはずですが、環境が余りにも変わらない(深海だから)ので変わる必要というか意志を持たなかったと言えると思います。

種が意志を持つ訳ないだろ!というのが反論でしょうけれど、動物の群れは雨期や乾期や食料となるものの変化で群れで移動するわけですがそれは環境に応じて群れとしてある種の意志を持って移動しているわけですから、それも否定するとなると、餌がなくなったら色んな方向に移動してある群れは飢え死に、ある群れはたまたま餌のある所にたどり着く、という事になってしまうのと同じだと思います。

話は飛びますが、文化や建築などもある種の進化をして来ている訳ですが、それも環境(素材の発展や工業化なども含めた)の変化に適応させて来ていると言えますが、動物は選択を誤れば絶えるのみですが文化や建築は方向を誤っただけで人間が絶えるわけでもないので、良い方向に変わるという意味での「進化」しているか?と言えば、今の文化や建築はある意味退化をしている面が強いですよね。動物の世界は生きるか死ぬかという厳しい基準で判断される訳ですが、今の文化は経済に負けてしまっているからもう形骸化している?のか。。古代や中世は様々な文化が覇権を競っていたようなところがあるからだから文化としては豊かだったのでしょうね。

人間だって動物なんだから、人間がつくった不完全なもの(学問や経済や宗教)ではなくある意味完全と言える動物を良く知る方が、何か確かな事が得られそうな気がしています。
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by Moriyasu_Hase | 2014-02-16 18:41 | みるーよむーかんがえる

津軽じょんがら節

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ふと手に取って見たのだが、言葉にならない重(苦し)さがあった。
言葉にするとその重さが飛んでしまいそうだけれど。
訳ありの男女が都会から波風吹きすさぶ青森の寂れかけた港町へ。
決して普通に住みたいなんて思える場所じゃないけど、その女の故郷であり、「アンタには故郷はないけど良いものよ」みたいな事を言い、最後は男はその村で生き生きと暮らすようになり、盲目の少女と深い仲に。「あの人にも故郷が出来て良かったわね」と女は去る。

まずは、一般的な、都会を中心とした「暮らし」というものに対して真反対の極にあるような場所を、荒れ狂う海の映像で強く印象づけられるのだが、その環境の中だからこそ生きる人々がある種の「強さ」を持たざるを得ないし、それが強ければ強いだけ、属する人間には強い「故郷」足り得るというのかな。

改めて、というか初めてそんな「強さ」を見せつけられた気がして、言葉にならないのかもしれません。
とても印象的だったし、良かったです。
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by Moriyasu_Hase | 2014-02-15 14:43 | みるーよむーかんがえる

これからの浜松城公園を考える市民フォーラム

これからの浜松城公園を考える市民フォーラムというものが3月13日に例のセントラルパーク構想以降の主管だった都市整備部緑政課によって開かれるという情報をある方から教えて頂いた。
これから出るなら良いけれど、市のHP以外では見つからないのですが、まさか形式上フォーラムのようなものをやると決めていたけど、なかなかその後進んでいないにも関わらず予算が付いてしまっているから年度末にやる、そして僕らみたいにずっと意見を言ったり、会に出たり、以前は名刺を取られた?記憶もあるけど、そういう市民に直接案内するような事もなくこっそり進めるつもりじゃないよねえw

でも定員250名で応募多数の場合は抽選だなんて、前回の会なんて何人いたんだろう?50人ちょっとじゃないかな。どういう目算だろ?
もちろん僕は行きますし、少しでも発言の場があれば発言しますし、セントラルパーク構想はなくなって、今はあくまで公園部分だけを話し合う場だ、と言われようが、他の施設も含めた公園だし、今後美術館などつくるにせよつくらないにせよ、セントラルパーク構想以降、それを意見できる場もなくなってしまっているので、この場でするしかないだろうし、するべきだと思っています。

と、こういう奴は来て欲しくないし、しゃべって欲しくない、と僕が担当だったらもちろん思いますが、まあ緑政課さんには仕事を通じてもちょっと言いたい事があるし仕返しをしたい訳じゃないけど、遠慮はしませんw
具体的には、市内のある地域では、植栽や外構を市のルールに従って行わないといけないのですが、まあ僕に言わせれば形式的な、過剰な、それも文面化していないものを押し付けて来たんですが、もちろん景観への配慮という主旨は分かるが、ダメな建物はいくら緑で覆ってもダメだし、緑がなくても良いものは良いんだし、僕がつくったものを見て文句があるなら言ってくれたら良いと思ってます。もちろん最低限のルールは守りますけどね。

浜松市さーん。税金使ってやってるんだから、もっと市民と向き合いましょうよー。
僕は良くするために関わろうと思ってるだけだし、そちらと違って無給で何にも得はないんですよー。というのは言い過ぎで、公園が良くなれば、僕は特に近いから老後散歩する機会は増えますね。
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by Moriyasu_Hase | 2014-02-12 16:32 | 浜松のこと

リアルアノニマスデザイン

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先日「作家性」「非作家性」について考えながらネット見ていて、1998年のみかんぐみの「非作家性の時代に」とという文章を改めて読みたいなあと思ったらこれにも転載されたらしく、まあ読んでみようと。
プロダクト系、建築系、メディア系、の方々にアノニマスデザインの可能性なりを語ってもらう、という企画で、中心ではない?にせよ藤村龍至さんが仕切っているのだけど、まあつくるものには全く共感できないし、言論ではご活躍だとしても、どうも芯が見えないので興味は持てない。

まずだいたい、上記3分野において、もののつくられ方が全く違うから、同じアノニマスと言ったって,本質は共通するからその議論ならまだしも分かるが、違う事を整理していないので余計混乱してしまうように思う。具体的にはプロダクトは、大量生産を前提とするから、無印しかり、それがある種ファッションとなりうるしなってしまって来たけれど、建築は一品生産であり、アノニマス的なものは単に地味なものとして施主が選ばない傾向があり、それが致命的だという違いがあるように思う。
でも断片的には良い話はもちろんあって。
まず、柳宗理が伝えたかったアノニマスとは、作家が良いものを発見的に見つけるということ。
でも、民に見る眼がすっかり失われた「愚民」社会になってしまったことを危惧して、アノニマスが見直されているのではないかということ。
建築においては、最初は全景にあっても時間をかけて背景化するような、モダニズムが目指したようなアノニマス性が必要ではないかということ。
「anonymous=匿名性」から「polynimousu=多名性」つまり、関わった多くの人々が署名をするような在り方を目指すべきではないか、ということ。
作家とは、様々な分野でアイドル的なものでしかなくなっているし、でもニッチ的には生き残れるだろうということ。

と、すっかり作家なんて、という流れですが、内藤廣さんの「遠投力」という言葉が引かれていて、つまり、建築は永く残るべきもので、つくる時とずっと先では時代も価値観も変わるけれど建築は後者を見据えた「遠投」であるべきで、そこに何を見据えるかにおいて作家性というのは否定すべきではない、という内容で、そこについては同意します。が、今の世の中が求めているものも建築家側が意図しているのも、概ねできた瞬間の形だったりしますから、そこの作家性はそれこそアイドルでし
かない、という事なんだと思います。

アノニマスとカタカナにするから分かったような分からないような感じですが、僕は、吉田鉄郎の「みていやでない」という言葉に尽きると思っています。
パッと眼は惹かないけれど、誰が見ても嫌だと思わないようなもの。もちろん100年残れば100年先の人もそう思わないようなもの。各国に残る歴史のあるまちなみは皆そうだけど、現代つくられる建築は、ほとんどはそうはなれないだろうけれど、アノニマスとはそれを目指す事だと思うし建築はそうあるべきだと思っています。
藤村さんがつくるものは、「無名性」チックだけど、今見ても嫌だなと思うから出発点から間違っていると,僕は思います。
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by Moriyasu_Hase | 2014-02-09 22:31 | けんちくーよむ

痩我慢、専制について/福沢諭吉

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現代語訳ということもあり読みやすかったし、面白かったです。

諭吉は中津藩で下士族の父を持ち、上士族との強い差別によって父は無念な生き方をしたようで、時代も変わり、それもあってか諭吉はそこから上手く抜け出した?ようで、その辺りの時代背景が「旧藩情」に描かれてます。
これを読みたくて買ったのですが「痩我慢の説」
国をつくって、国境をつくって争いを続けているというのは、「自然の公道」ではなく、「人間の私情(個人的な感情)」から生まれただけのものであり、民族が言語や文化や歴史を共にしてきた結果離散する事もできなくなり、国や政府をつくり、「いったん国を建てると、人々はますますそれに固執し、自国と他国の区別をはっきりと意識するようになる。他国、他政府の不幸な出来事には全く痛みを感じないようになり、陰に陽に自国の利益や栄誉を主張するようになる」
「自国が衰退に向かう時、敵国に対して勝算のない場合でも、力の限りを尽くして戦う。いよいよ敗北が目前に迫った時、はじめて講和を考え、また死を決意するのは立国の正義であって,国民が国に報ずる義務である。  これが俗にいう痩我慢である。」
そして、無血で江戸城開城をさせた勝海舟は痩我慢の大義を破り、「立国のために至大至重な武士の気風を害した罪」があり、さらにちゃっかりと新政府の高官に納まった事はさらにその気風を落とす事になり許せない事だと。
つまり、国家とは人間の弱さから生まれるようなものだけれど、それを守るには身を犠牲にする覚悟を失ってはいけない、というような事かな。ちょっとズレるけど、日本には徴兵制がないからより「国」というものに対する意識が落ちてしまっているように思う。

次に「丁丑公論」ではつまり西郷隆盛を擁護するのだが、その書き出しが興味深い。
「およそ人は,自分の思い通りに物事を行ないたいと欲するものだ。それが専制の精神である。 専制は今の人類の本能と言ってもよい。個々人であってもそうなのだから、人が集まってつくった政府は専制にならざるを得ない。政府の専制はとがめる事ができない。 政府の専制はとがめることができないとはいえ、放っておくと際限がないから防がざるを得ない。今これを防ぐ方策は抵抗する事だけだ。 世界に専制が行なわれる間は抵抗の精神が必要である。それは、天地の間に火がある限りは、水が必要であるようなものである」
これは真理ですね。常に思い出して良い言葉だと思うし、やっぱり今の私たちには余りにも「抵抗」が足りなさすぎているから、こんなに「専制」に溢れていると言えます。
また西郷さんの為した事を形容して「罪を憎んで人を憎まず」というのだけど、最近聞かない言葉のようにも思うけど、すごく大切な言葉に思います。つまり、とある凶悪な犯罪があってもその彼(彼女)が生まれながらに凶悪性を持っていた訳ではなく、生まれ、育った環境が罪人を生み出してしまったわけで、たまに喩えとして思うのは、ニキビはそこに薬を塗ればそこだけは治っても、それを生み出すのは体質であり、体質を変えなければ無くならない、という事と同じで、罪人を檻に入れればそこは抑えられても次から次へと罪は起こるというのは、やはり社会全体の問題だという事を忘れないようにしないといけないし、罪をその個人に押し付けようとする傾向は益々強くなっているように感じます。
話を戻して、西郷さんは「抵抗」して「専制」側を勝ち取ったけど、その専制が行き過ぎれば新たな抵抗が必要になるし、西郷さんの反乱は、新政府が彼を追い込んで起こさせたようなものだと。
そう言えば、第二次大戦も、ABCD包囲網とやらで資源のない日本を追い込んで、客観的に見ても開戦の後押しをさせたようなものだったんじゃないか?と思うしそれとも似ている。
まあ勝てば官軍負ければ、、ですか。

色々考えさせられました。軽薄な新書なんかよりずっとずっと価値がありますね。
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by Moriyasu_Hase | 2014-02-09 10:47 | みるーよむーかんがえる

新建築2月

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妹島さんの、京都の集合住宅。この表紙写真だと断片しかわからないので、ネットにあった模型写真(実物のはネットでは見つからなかったけど掲載されてて、なかなか笑えます)
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10戸ですが屋根は20枚くらいで、つまり1戸が2ボリュ−ム位に分節され、その間に専用庭があり、「どこをとっても違う展開を見せる空間構成は、ここに住んだら楽しいという気持を湧き立たせてくれる」とのこと。
鉄骨の細いフレームに木造の屋根を乗せているのでインテリアとしての優しさや屋根の程よい軽やかさが出ている、という意味では他の妹島さんやSANAAがしばらく前つくった明け透けな集合住宅よりは良いなとは思うし、賃貸だからまあ好きな方が好んで住むだろうから良いのだと思う。けど、冬は辛そうだなあというのと鉄骨のフレームはやっぱり僕は長時間見ていたくないなあという感じ。

集合住宅特集なので他にも色々あったけど、山口誠さんのoggiは、いつものように重量感のあるミニマルさというか、僕は好きですが、素材やディテールも本当に良く考えてあって、寡黙で品があって良いなと思います。

誰か集合住宅依頼してくれないかなあ。。。。
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by Moriyasu_Hase | 2014-02-06 17:12 | けんちくーよむ

レオナルドダヴィンチ論byヴァレリー

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今まで近寄りがたく深い興味も持てなかったけどダヴィンチを知りたくなり、どうせなら深層に近づけるかとヴァレリーを選んでみました。
やっぱり前半の「方法序説」とかは頭痛くて流しましたが後半は読み易くとても良かったです。

「レオナルドは、画家にとってのモデルとしただけでなく、自分がそうだった発明家にとってのモデルとして、生きた自然を採用したのであり、確実に次の事を学んでいた。この自然は、その不可解な働きにおいて、全体と細部、形相と質料、目的と方法を決して分離しないということ、それだからこそ、自然はわれわれにとって模倣不可能、つまり、理解不可能であるということを。」
「絵を描くことは、レオナルドにとって、すべての知識、さらにはほとんど全ての技術を必要とする活動である。幾何学、力学、地質学、生理学など。」
「この人物のうちに、きわめて意識的であるために、芸術と科学が解きほぐせないほど混ざり合っているような仕事の典型を認めた」

裏を返すとダヴィンチの時代は既に、そして現代はさらに、自然や科学や芸術などは、バラバラに分類されてしまっていて、「真実」が見えなくなってしまっているけれど、ラスコー洞窟に絵を書いたような、観察と感性と描く、という事が渾然一体となったようなやりかたに更に様々な科学的な観察や思考を併せて行ったのが彼だという事です。

また「レオナルドのうちに、『王者の無関心』と呼びたいものを私は見てとる」つまり、特定の問題に無関心つまり、あらゆるものが問題であり、科学や芸術などの区別にも無関心であり、栄光にも無関心であり、その証拠に彼が残した手稿は全く「彼ひとり」のものでり誰かに何か伝えたいという意図が全く見られないと。

と、読んで来まして、どうも仏教的な「無」に近いのではないかなあと思いましたし、そちらには興味があるのだけど、僕も設計する立場として「無」の境地なんかに行っちゃったら建築自身も否定するしかないからそう創作すべきなんだろう??と思っていた所だったので、もしかしたらダヴィンチ的なあり方というのがあるのかもしれないなあと、漠然と思いました。

また少し追求してみたいなと思います。
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by Moriyasu_Hase | 2014-02-02 17:48 | みるーよむーかんがえる

ひとりよがりのものさし

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たまたま知ったのですが帯に「白洲正子が最後に惚れた骨董界カリスマ」なんて書いてあって気になり。
本人も言っているように、「青山二郎や白洲正子さんは本当に凄いけれども、彼らと僕らは同時代を生きていない。着ている服も、履いている靴も違う。それなら美しいと感じる物だって違っていて当たり前だろうと思う」つまり、美術館に入るものが最高であるようなものさしでなく、もっと素朴に、自分が良いと思うものをみつけるという「ひとりよがりのものさし」。
僕も歳をとったからか似たような心境に近づきつつあるから概ねのモノは素直に良いなあと思いましたが、まああとは置く場所でしょう。余りにも寂び(錆びかもw)過ぎているものはやはり置かれる場所も選ぶし、新しい家や家電や新しい服なんかとは決して馴染まないし、僕の家はそれなりに古いものとの親和性はあると自負はしていても、さすがに負けちゃうな〜というものも多かったし、僕はそこまでいかない程度が好みだったりもします。

ずっと思っている事ですが、やっぱり昔はそれなりに「目利き」が居たし、一般の人たちにもそれなりに見る眼があったけど無くなってしまった。でも例えばパリっ子はまだその眼を持っているだろうけれどそれはやっぱり日本と違って美しい環境が残されているからだと思う。

最近何かと古いモノなどを買ってしまい徐々にモノが増えてきているのだけど、余り増やしたくないけれど手元に置いて日々ながめたり触ったりしないとやっぱり感性も鍛えられないからと言い訳しつつ。。老いたらここで骨董商でもやろうかなんていうのは冗談だけど自分で集めたものをちょっとギャラリー的に置いてみる、くらいはやるかも。。
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by Moriyasu_Hase | 2014-02-01 11:29 | みるーよむーかんがえる